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安楽死法

ずっと昔、ほとんどの人間は苦しみながら死んでいったの。

わたしは生まれたことをとても不満に思っているけど、それでも今この時代──誰でも好きなときに死を選べる時代──に生まれたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。そうでなければわたしは生きている間ずっと苦しんでいて、きっと死ぬときも苦しんだことだろう。

18歳の誕生日を迎えてから数日後、わたしの社会保障番号は安楽死希望者リストに登録された。安楽死法は成人にしか適用できない。成人まで待てなかったわたしは、それまでに色々な方法を試した。昔ながらの方法。まだ”自殺”という言葉があった時代の方法をね。自分を殺す、なんて変な言葉。

とにかく現代のような管理社会では、自分を殺すことは難しかった。公共の場所はもちろん、マンションや道路にも監視カメラがあるし、買い物の履歴は全て残る。ロープ、ナイフ、炭、その他もろもろ。使用許可証を持った人間以外がそれらを買うと、その瞬間にシステムによって通報されるようになっている。そんなわけで本で調べたあらゆる手段を試した結果、不本意なことにまだ生きている。

生きたくて死んでいった人たちが大勢いるなか、不幸にも生まれてきてしまっている人たちも存在する。前者は目立つけれど後者はほとんど目立たない。社会は、生きることに絶望している人がいるという事実から長い間目をそむけていた。
それでも、先人たちの努力によって「生きるのに向いていない」人たちにも救済措置が与えられることになった。それが、安楽死法。かつては一時的な気の迷い、あるいは精神的な病とされていたけれど、今では全ての人間に「好きなときに死ぬ権利」が与えられている。安全で確実で苦痛のない死を与えてくれる。テクノロジーと先人たちの努力に感謝。

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その部屋に入った途端、灰色で霞がかったようなわたしの視界に初めて色がついた気がした。

まるで死神のようにうつくしい。

わたしの第一印象はそうだった。そうして、最期までそう思っていた。殺されるならこの人がいい。わたしは人を形容する言葉をあまり持っていなかったけれど、とにかくきれいな人だと思った。

「いらっしゃい」

その声は低く穏やかで、聞いていてとても心地が良かった。

「そのとおり。私の仕事は人を殺すことだ。君のような人間をね」

白衣を着た死神に導かれて、わたしは部屋の中央にある寝台へ腰掛けた。なめらかに研磨された木でできた寝台。おそらくわたしの棺桶。そこに座って、その人を見る。背はそれほど高くない。伸ばした髪を無造作に首の後ろで束ねている。

「さて、手順はここに入る前に聞いているね?もちろん気が変わったら出ていってもいい」

出ていく気は全くなかったけれど、少しこの人と話をしてみたくなった。この部屋に入る前は一秒でも早く終わらせたいと思っていたのに。わたしの死に際を看取ってくれる人がどんな人なのか知りたかった。

「いいだろう、君が満足するまでね。時間は充分にある」

先生はそう言うと、白衣のポケットからタバコを取り出して火をつけた。タバコを吸っている人をわたしは初めて見た。映画なんかでは見たことがあるけど、現実にはもう存在しないものだと思っていた。

わたしはしばし、先生がタバコを吸うところを眺めていた。独特のにおいが、さして広くもない部屋に充満する。このきれいな人がどうしてこの仕事をしているのか知りたかった。

「ああそれは、私の性格がこの仕事に適合していたからだね。多くの医師は他人の人生を終わらせることに心理的な抵抗があるらしい。私にはそれがない。そういうことだ。元は外科医だったんだけどね……」

先生は細く長い指で優雅にタバコを摘むと、ポケットから取り出した小さな灰皿に灰を落とした。暗い色のネイルが肌の白さを際立たせているようだ。その仕草一つひとつが、まるで絵画のようだった。
今までに何人が、このきれいな手によって消えていったのだろう。

「数えたことはないけど、そんなに多くはないね。仕事は3日に1回くらいだから……そうだね、300と、少しかな」

先生は退屈そうに言った。たいしておもしろくもない、といったふうに。

「人生は尊いもの。何ものに変えても生きるべしなどといった考えは古風かつ、幸福な人間による押しつけだよね。人間には生きる権利と同様に死ぬ権利もある。この管理社会では思い立ったときにすぐ、というわけにはいかないけれど。しかしそのおかげで衝動的に、あるいは何らかの外部的要因によって、といったエラーを回避することができるのは良いシステムだと思うね」

先生は一気に話すと、またタバコの煙を吐き出した。煙は一瞬だけ部屋を漂ってすぐに消えてしまう。わたしももうすぐにあんな風に消える。そう考えると気分が楽になった。

「ま、ここで人を見送る仕事も悪くはないよ。満足そうな死に顔を見るとね、誰かの役に立ったと思えるから……」

先生はそう言うと低い声で笑った。無表情でもきれいな人だが、笑うとさらに華やかになる。

「仕事が生きがいだなんて変だと思ったね?いいよ、私だってそう思う。でもね、執行医の数は少ないからって辞めさせてもらえない。そのかわり色々と自由にさせてもらってるけどね」

咥えたタバコを指差して、先生はまたくっくっと笑った。その笑い声を聞くたびに、視界に色彩が戻ってくるような気がする。

「ん?ああ、悪いけどこれはダメだよ。君のきれいな肺や血液も分配される予定だからね、汚したら怒られる。それとも、やっぱり提供するのはやめる?」

わたしは首を横に振った。とくに残念とも思わなかった。かわりに、その優雅な指先に目を向けた。

「それくらいならいいだろう。ちょっと待ってなさいね」

先生は灰皿にタバコを押し込んで、わたしが入ってきたのとは別のドアから出ていった。静かな部屋に取り残されて退屈だったので、試しに棺桶に横たわってみた。体格に合わせて作られているからかとても寝心地がいい。そのままぼんやりと天井を眺めていると、先生が戻ってきた。手に魔法の小瓶を持って。わたしはのろのろと起き上がった。いつにも増して体が重くて、起き上がるのにも苦労する。

「これは長い歴史のある色でね、赤い黒、という意味の名前がついている」

無言で合図されて手を差し出す。自分の腕なんて見たくない。無数の刺し傷が残っていて醜いから。どうしてこんなことをしたの、と見られる度に聞かれるのも嫌だった。理由なんてない。ただ、そうせずにはいられなかっただけなのに。先生は腕の傷跡には目もくれず、わたしの手を取ると爪先に色を塗っていく。黒だと思っていたが、よく見ると赤が混じった黒だとわかった。なんて悪魔的で素敵な色だろう。

爪を手入れしたことなんて一度もなかった。爪だけじゃない。肌も髪も、邪魔だとしか思えないから。早く消えてしまえばいいと思っているのだから。

「黒には人間の悪意や暴力、不正行為や闇社会という意味合いも含む」

しかし先生によって彩られていく爪先を見ていたらほんの少しだけ、楽しいと思えてきた。10本の指先が全て艷やかな悪魔色に染まったのを見て、先生は満足そうだった。

「君や私のような人間にはお似合いの色だね」

なんて言われて、わたしは少しうれしくなった。嬉しいと思う日がくるなんて、今まで考えたこともなかった。

それと同時にひどく疲れていた。眠たくて仕方がない。なんとか棺に体を押し込んで、先生に彩ってもらった手を体の上で組んでみた。とても心地が良くて目を閉じる。

「満足したかね。じゃあ、腕出して」

先生の声は、なぜかさっきよりも機嫌が良さそうだった。
うっすらを目をあけると、先生がわたしの腕に針を差し込むところだった。痛みは全くなかった。

「さて、これで全ての準備は完了だけど……何か言っておくことはあるかな?」

わたしは黙って目を閉じた。この部屋に入る前に説明されたとおり、先生に手渡されたスイッチを押した。ひどく苦労した。だってもう眠くて、ほとんど力が入らなかったから。

ほんとうに、クソったれな人生だった。

わたしの呟きが聞こえたのか、先生の楽しそうな笑い声が聞こえた。ああ、わたしが死ぬことでこんなに楽しそうにしてくれる人がいるなら、ここに来たのも悪くなかったのかもしれない。

”わたし”はそこで消滅した。
宗教の概念がほとんどなくなった現代では、わたしはどこへ行くこともなくただ、消えるだけ。そこにはなんの物語も悲劇もなく、ただ人間が一人消えたという記録が残るだけ。

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