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少子化対策は2.0を念頭において議論すべき―日本の少子化議論の誤り

■ 現状の少子化論は、すべて無責任な議論である

少子化をめぐる議論で、筆者が長年、疑問に思っていることがある。
それは少子化問題の「解決」となる出生率2.0という数字が、目標値としてなぜ置かれていないのかという疑問である。
なぜなら2.0という基準が不在だと、無責任な提言がいくらでも言えてしまうからだ。 たとえば高校大学・保育園の無償化、第三子に1千万、消費税廃止、デフレ解消、事実婚、選択別姓、育児休暇をとりやすく…といった種類の提言がそうである。

なぜこうした提言が無責任なのか、2.0を意識して考えてみればわかる。
いうまでもなく出生率2.0とは、全員が結婚して子供二人(乃至2/3が結婚子供三人)という水準だが、こうした提言を言ってる人は、それで本当にこの水準に届くと思っているのか?ということである。
(たとえばあなたの周りにいる未婚の男女等を実際に思い浮かべて、こうした政策を実施すれば、彼らは結婚出産に向かって、その結果2.0に到達するであろうと、本当に思いますか?)

もし提言者自身ですら、これらの政策がすべて実現してもこの水準に届くと思っていないのだとすれば――少なくとも筆者には到底届くとは思えないのだが――それらはいったい何のために提言されているのかということである。
要するにそれらは「少子化なのだから」「考えられるものすべて行うべき」という言い方で糊塗されている、直裁に言えば少子化問題をダシにして言っている、少子化の本質的解決とは無関係の、政治的な利益誘導だろう。(もしくは本質から目を逸らさせ問題解決を遅らせることを目的とした高度な政治工作)(因みに事実婚・選択別姓のフィンランドの出生率は1.35)

少子化・出生率2.0
出生率2.0のイメージ図

出生率2.0を踏まえた議論を 少子化議論2.0 と呼ぶなら、2.0と無関係に行われている議論は 少子化議論1.0 と呼ぶべきものである。 1.0はすべてまやかしの無責任な議論であって、時間と予算を空費し、事態が悪くなるだけである。
われわれには1.0の議論、すなわち無意味な少子化議論をこれ以上続ける余裕はない。
無意味な「それらしい」議論を避けるために、2.0という水準を具体的にイメージして問題を考えるべきである。
というわけで、2.0を意識しながら、少子化問題について考えてみよう。

■ 経緯のおさらい

まず簡単に経緯をおさらいすると、出生率2.0を切ったのは1975年(昭和50年)ごろである。グラフを見ればわかるように、安定成長期からバブル時代にかけても(1970-1990年)出生率は下がり続けたので、<経済>がよくなったとしても出生率が回復するとは思えない。

出生率の推移

1.57ショックが騒がれたのはバブル真っ只中の1989年である。当時この数字を問題視した自民党は1994年(平成5年)から<少子化対策・子育て支援>として「エンゼルプラン」を開始したが、しかし結果はすでに明らかなように効果はなかった。
また民主党政権時代にも、子ども手当や高校無償化を実施したがやはり効果はなかった。 現在でも<子育て支援>だとして保育園などを作るなどの動きがあるが、おそらく効果(2.0)はないだろう。
社会環境なども、50年前と比べて(少なくとも全体として)悪いとは思えないので、つまり少子化の本当の原因は<経済>でも<子育て環境>でもないことになる。

もちろん経済的要因や、核家族化による親世代の支援の低下など、以前より条件が悪い面もあり、それによって結婚出産を望みながら諦めている人もいるので、雇用の安定や子育て支援は言うまでもなく必要だが、それが少子化の根本原因かというと、そうとは思えない。(それで2.0を回復するとは思えない)

■ では少子化の本質的原因はどこにあるのか

筆者は2000年代半ばごろに、日本の官庁が出した少子化問題に関する分析レポートを読んだことがある。記憶で書くが、そこでは経済的な問題よりも宗教の影響が大きいとされていた。

レポートによれば、日本と宗教観が似ている(少なくとも他の地域よりは)香港シンガポールでは、経済は日本より良かったにもかかわらず、出生率は日本より低かった(1.2)。
また(一般に少子化の原因とされる「都市化」も甚だしい)西側先進諸国においても、結婚出産を奨励する宗教を維持しているアメリカイスラエルは出生率が高いが(2.0以上かそれに近い水準)、キリスト教の影響力が低下している欧州では低くなる傾向があると書かれており、そしてそうした事実からして、少子化とは経済その他の問題ではなく、宗教(つまり内面)の問題であると分析されていた。
筆者が思うにこの分析は完全に正しい。
結婚出産を奨励する宗教(内面)を持たない先進国で、「結婚出産は個人の自由だ」「結婚出産を周りから言うのはハラスメント」といった社会的風潮のなかで、政府の対策だけで出生率を上げられた(2.0を超えた)国は、おそらくない。

■ 日本で少子化を解決する(2.0)には

筆者は、日本における少子化の根本原因は、結婚出産に対する社会的常識(社会的事実)を失ってしまったことにあると思う。すなわち、結婚出産するのが当然という方向の市民宗教(思想)を社会的にうしない、「個人の自由」化してしまったからだと思う。実際、出生率の低下が続くここ数十年を振り返って、我々の社会で一貫して起きている変化が何かと言えば、「多様な価値観」という美名の下に正当化されてきた、この結婚出産に対する社会的事実(思想)の抑制・弱体化、そしてそれにともなう非婚化であることは、誰もが認めることではないだろうか。

2.0のイメージ図(上図)をみれば直観的に明らかなように、2.0は未婚DINKsを安易に容認したままで達成できるものだとは思えない。2.0を達成するには、「結婚出産が常識である」という方向の社会的事実・価値観(思想)を取り戻すことが必要になる。

たとえば「学校へ行くか行かないかは個人の自由」とは言わないし、「就職(労働)するかしないかは個人の自由」とは言わない。結婚出産もそれらと同じ次元で(人間の常識として)「個人の自由」とは言えないのではないか? といった理屈はありうると思う。昔は子供を育てて一人前とも言われた。
考えてみると、我々は就学就労について「それをするかしないかは個人の自由である」という発想をもっていない。つまりそれらは選択肢ではないのである。結婚出産についても、かつてそうであったように、就学就労と同じくらいに、当然である(しない人はどうかしてる)という感覚を取り戻すことができれば、2.0を回復することは十分可能だと考える。

(※以上が筆者が思いつく少子化対策2.0であるが、これはあくまで例であって、これが唯一の正解だと主張するものではない。別の方法があればもちろんそれでよい。とくに内面に関係なく2.0が期待できるものがもしあるなら(本当にあるならだが)、筆者も賛成する。いずれにせよ本稿の主張は、とにかく1.0の議論はやめようということ)

今日の先進国においては、もはや戦争などで民族が滅びることは考えにくい。民族が滅びるとしたら誤った思想(内面)による社会の分解や人口の減少・消滅によってだろう。
我々は現代日本社会に取り憑いている思想が誤ったものでないかどうかを、ここで真剣に検討する必要がある。
われわれが政府の「少子化政策」に期待してしまうのは、条件さえ整えれば2.0を回復するということを無根拠に前提しているからである。その前提から疑わなくてはならない。

少子化対策2.0として必要なのは、政策ではなく、日本社会の思想的転換である。
少子化の根本原因について「社会的事実」以外に求めようとする言説、なかんずく政府の「少子化対策」の不備に求めようとする言説は的外れである。 2.0に届くためには、結婚出産に対するなんらかの(なんでもよい)社会的事実(思想)を取り戻すことが必要である。
この社会的事実(思想)を取り戻さない限り、少子化問題は本質的に解決しないだろう。

(※こちらが元原稿です。noteでは書き切れない註釈なども書いてます)
少子化対策は2.0を念頭において議論すべき―日本の少子化議論の誤り

(※結婚子育てしない「理由」を尋ねても意味がないのはこれが原因)
「理由」は本当の理由ではない――社会政策の陥穽