死刑制度への反対

大学の期末レポート(今年度前期、つまり去年の夏、の倫理学)をそのまま投げます。元タイトルは『死刑制度の存在意義』。ちなみに評価はAだったぜ。やったね。

現代社会においても未だに正反対の価値観が対立している倫理的議論がある。死刑制度の是非はその中で最も重大なもののひとつである。死刑制度存置を主張する側にも、死刑制度廃止を主張する側にも、それを主張するに足る信念と根拠があり、未だに世界的な意見の合致がみられる様子はない。

はじめに自分の考えを記すと、僕は死刑制度に正当性はないと思っている。この意見は、存置を主張する側と廃止を主張する側、どちらの論拠も理解したうえで、僕が自分自身の理性によって丁寧に導き出した結論であると自負している。

そもそも生き物を殺すのが許されるのはどういった場合だろうか。前提として「我々は生きてゆくために他の生物を食糧あるいは資源として利用する必要がある」ということ、当たり前ではあるが「死んだ生物が生き返ることはない」ということ、そして「生き物のいのちを奪うという行為は可能な限り避けられるべきことである」ということを、この問いについて考えるときに忘れてはならない。

まず、食糧や資源として利用するために生き物を殺すということに関しては、基本的に許容されることだと思う。これは動物が生きてゆく上で避けることの出来ないことだからだ。しかし、同種である人間を積極的に食糧あるいは資源として消費するために殺すというのは、ひとつの生物種として到底許容できることではない。これが許容されない理由として、人間が他の動物より尊いものであるという論理を使うことはできないことはないが、それはしない。倫理観にそれを含ませてしまえば、人間以外に知性を認めない、つまり権利主体として同列に扱うことはない、ということになるからだ。

次に、不利益(特に死)をもたらす可能性のある生き物を排除するために殺す、という場合についてだが、これはさらに場合分けする必要がある。まず、他の生物が対象となる場合、危険性や緊急性・必然性など、様々な要素の程度によって、許容されるべきであると思う。極端な例を挙げると、致死性の感染症を引き起こす細菌を死滅させるような場合などは「不利益回避のための殺し」が許容されるパターンである。逆に、危険だからといって、熊をこちらから積極的に山まで駆除に向かう、などといった行為は許容されない。直感的な倫理観に基づけばこれらは自明の理であるとは思う。細菌の場合と違い、熊の例では緊急性も必然性も低いからである。このように、こういった消極的理由による殺しも、他の生物であれば程度によって許容されるべきであると思う。

しかしこの目的での殺しの対象が人間であるときは、話が全く変わってくる。先にも記したが、同種であるという時点で他種の生物と同列に扱うわけにはいかない。そしてここで死刑の是非に深く関わる命題の議論となる。

まず、人間が他の人間を「今まさに」殺そうとしている場合について考える。例えば、罪のない人が通り魔によって今まさに喉を掻き切られようとしていて、どんな説得に対しても耳を傾ける気配がなく、警察官が通り魔の脳天を拳銃で撃ち抜き、殺したとする。この警察官が人を殺したことに対して倫理的に非難を浴びせる人は、おそらくいない。なぜなら、通り魔を殺さなければ罪のない人が殺される可能性があったからだ。この例を言い換えれば、殺すことによって別の命を救った、という解釈もできる。

では逆に、殺人という罪を犯した人間を事件後に殺す、つまり我々が死刑と呼んでいる刑罰についてはどうだろうか。穿った見方をすれば、生きるための糧や資源として必要なわけでもなく、今まさに誰かに害を成そうとしているわけもない人間から、「報復」という、感情任せで必要性の定かでない名目を盾に、命を奪う行為である。

結論を言えば、僕は「事前なら裁きは許容され、事後なら裁きは許容されない」と思う。「今まさに殺人者になろうとしている人間を殺すことによって助かる命があるならそれは許容され、これより先の将来に再び殺しをするかどうかは可能性でしか議論できない前科者を殺すことは許容されない」と言い換えてもいい。

理由なく殺人を犯す人間はいない。たとえそれが快楽的な理由だったとしても。殺人は個人だけの責任ではなく、その個人を形作った環境、つまり社会にも、その影響の多寡にかかわらず責任は存在する。完全に環境から隔離された人間というのは絶対に存在しないからだ。これは逆に言えば、外部からのはたらきかけによる更生の可能性も存在するということである。これを、ただただ個人の責任のみに焦点を当てて、思考放棄とばかりに、命を奪うという形での刑罰を執行するのはあまりにも早計なのだ。

殺人犯はまた人を殺す可能性がある、という反論はあると思う。しかしそれは殺人犯に限らず、誰に対しても言えることだ。これから先、罪を犯すかどうかは誰にもわからず、可能性でしか議論できない。既に殺人を犯した人が、この先誰も殺さない可能性もゼロではない。その上で、過去に死んだ人は犯人を処刑したとしても帰ってこない。本人が再犯を行うということを宣言しているような状況を除いて、犯人が再び殺人を犯す可能性が100%であると誰にも言えない以上、明確な必要性がなければ生き物を殺してはいけないという前提に立つならば、死刑に正当性は認められない。

あるいは、人殺しがのうのうと生き永らえるのは公平ではない、という反論もあるだろう。揚げ足を取るような言い方になるが、そもそも「刑罰を受けるから人殺しをしてはいけない」のだろうか。誰しもが違うと答える。その通り。「ただただ、人殺しをしてはいけない」これで十分だ。処刑されなければ公平ではない、という感情が沸き上がるということそれ自体が、「ただただ、人殺しをしてはいけない」という格率に対して、二重に矛盾している。

死しか償いの方法はない、という主張もある。これに反論するためにまず前提として、償いというものには2種類あるということを示しておく。「被害者にとってのプラス」と「加害者にとってのマイナス」である。賠償金などは前者にあたり、懲役などは後者にあたる。そして償いの本質というのは前者にあると僕は思う。被害の価値が換算できるのであれば、被害者側にとってプラスとなる形でそれを還元すればいいのだ。

しかし、人の命の価値というのはそれ以外に換算できるものではない。よって多くの遺族は加害者側にとって究極のマイナスである死を要求する。しかしこれに合理性・整合性はない。この場合は「基本的に生き物を殺してはいけない」という格率の方が優先されるべきである。先も記したように償いの本質というのは「被害者側にとってのプラス」であり、それが成立しないのであれば罪を犯したとはいえ人命の方が優先される。よって懲役や賠償金といった形での妥協点で世界を回すべきである。

日本は先進国と呼ばれている国の中ではほぼ唯一といえる「死刑存置国家」である。国民の意識調査でも、死刑存置に賛成する、あるいは死刑廃止の必要はないという意見が現在では大多数を占めており、国際的に日本のこの傾向は特異である。

この理由は日本人の国民性にあると思う。というのも、日本には社会的に悪人というのが極めて少ない。しかしそれゆえに犯罪者や悪人というものを自分たちとはかけ離れた存在であると認識している節がある。本来人間性というものは白でも黒でもなく、濃淡の程度の違いはあれグレーである。しかし、犯罪の極めて少ない日本では、犯罪者というものの特異性が必要以上に際立つがゆえに、犯罪者というものは人間性が100%の黒であり、そうでない自分たちは100%の白であるという誤解を生んでいるのだ。しかし純粋な善人も純粋な悪人もこの世に存在しない。そして人間というのは環境によって簡単に善悪のバランスが変わるものだ。善人も悪人も地続きの存在であるという認識を、誰もが持つべきであると思う。

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