リーガルリリーのリッケンバッカーってなんだろね
途切れ途切れのnote、そんなこともあるよね。
書くネタはあるんだけど、温存しちゃうというか、ケチ症なんだと思う。
そんな中で、前々から好きで、改めてその好きを確認したから、今日はリーガルリリーのリッケンバッカーについて。
って、なんぞや?
あなたには、好きなアーティスト・グループ・バンドはいますか?
あなたには、その好きな人(たち)の好きな音楽はありますか?
あなたには、その音楽の好きなところはなんですか?
好きというのは、細分化して語るべし。
リーガルリリーというバンドのリッケンバッカーという曲について。
先ずはともあれ、聴いてください。
ああ、好き。
ちなみに、この間恋人と車の中で自分の好きな音楽をランダムで流していたら、「脱力系の女声が好きなんですね」って言われた。
確かにそうかもしれない。
リーガルリリーというバンドについて
wikipediaもあるだろうし、公式HPで見るのが早いと思うけど、自分なりに説明するとしたら。
3人編成のスリーピースバンド、全員女性、編成はギターとボーカル、ベース、ドラム。おそらく全員まだ20代で、スリーピースバンド故に、派手な音色はないけれど、その分、楽器の音色もシンプルで、歌が届きやすい。そして、脱力系(?)のボーカル。
そもそもスリーピースバンドにもともと魅力を感じているところがあって、それが上述した、シンプルながらの届くもの。それが物足りなさにもなるかもしれないけれど、ギターもベースもドラムも、そして、歌も届きやすい。
GO!GO!7188を始め、チャットモンチー、the pillows(音色的にはスリーピースじゃない…)と言ったところがぱっと出てくる好きなスリーピースバンド。
で、このリッケンバッカーという曲の魅力について。
音やバンドという観点からいろいろ述べてもいいけれど、リスナー視点を超えて、プレイヤー視点で語っても伝わりにくい気がして。
つまり、好きなもの(what)をどう伝えるか(how)。
このwhatとhowの関係は、常々意識しなくてはならないこと。
今回は、歌詞からアプローチしていく。
「リッケンバッカー」の歌詞について
そもそも音楽を歌詞から見ていくのって、結構遠回りなんだよね。
音や歌をそのまま感じて、好きかどうかを直感的に判断する。
いや、もちろんそれもあるんだけど、ファストじゃなくて、即物的じゃなくて、その曲を好きになるということは歌詞から好きになってもええじゃないかと。
いきなりどきっとするよね。
楽器をやっていた経験がある人ならなおさらどきっとすると思うんだけど、「きみ」=リスナーに成り代わるなら、そのどきっ具合が大きいもので。
でも、「きみ」が誰かはわからないとしても、「きみ」に宛てた歌なんだなってことはわかる。
で、「おんがくを中途半端に食べ残す」ってなんやねんと。
「おんがく」って食べられるものなんですかね。
「いや、これ、無理じゃん」と否定するのは容易いことなんだけど、でも、この歌の歌い手から見える世界においては、「きみはおんがくを中途半端に食べ残す」ように見えているということは否定できないわけで。これが歌い手の言っていることを一時的に信じるということ。
そして、早くもサビ。
いや、待って。
そもそもタイトルにもなっているリッケンバッカーってなんだろね。
リッケンバッカーってなんだろね
実は楽器をやっている人、それもギターをやっている人ならすぐにピントくるわけなんだけど、なんだと思う?
きっとね、ギターのこと。
それも、ギターそのものじゃなくて、ギターをつくっているメーカーのことだね。
はい、こちら、日本版の公式HP
ちなみに、リッケンバッカー社のギターを使っている有名人と言えば、the Beatlesですね。初期の頃の写真を見ると、リッケンバッカー。
でもね、このギターボーカルのたかはしほのかさん、このMVで使っているギターは、Fender社のMustangだよね。あら、不思議。
まあいいや、歌詞に戻ろう。
で、リッケンバッカーっていうのは人じゃないから、「歌う」も「泣く」もよくわからないけれど、ギターにも感情があるってことだね。
で、「きみはおんがくをやめた」ことで、「おんがくをころした」ことから、「おんがくも人をころす」こともあって、主客が逆転してくるというか、「おんがく」の側からもころされることがあるのかと。
ちなみに、ここの表現ってすごく面白くて、リッケンバッカーっていうのは会社であって、会社が「歌う」とか「響く」でも「泣く」でもない。この全体と部分の関係を使った表現って、提喩って言うんだよね。
「諭吉が飛ぶ~」とか、諭吉は飛ばないけど、諭吉って言葉でお金をあらわすように。
で、しかも、「ギターが鳴く」わけでもないから、擬人法でもあるし、暗喩(メタファー)でもあるという。何気ない表現なんだけど、すごい複雑な表現になっているんだね。
サビ後のBメロ。
先ず、「道が終わる」という表現はないけれど、「明日が来ない」=「死」の言い換えであって、これも提喩かな。
「明日が来ない」ことを因として、「このまま夜は起きない」という果が導かれる関係は自然だけど、「夜は起きない」ってのも擬人的だし、やっぱ表現がすごいなあ。
「きみを起こす人も消えて」というのは、「きみを起こせる人も消えて」という可能(性)が消失すること。
「地球の骨の形」ってなんや。
そして、それが少し変わるってなんや。
でも、きっと、「地球の骨の形」が変わったら、少し立ち方が変わって、世界の見え方が変わってくると思うんだね。
2番でのちょっとした変化
で、2番なんだけど、基本的に歌詞もメロディーも繰り返しなんだけど、歌詞がほんの少しだけ変わっている。
1番では、「おんがくを」だったところが、「まいにちを」に変わってしまっている。
さきほど、「死」なんて言葉を安易に使ってしまったけれど、これも何となく「死」を連想させてしまうような感じ。
でも、「中途半端に」という言葉がいい味を出していて、「きみはまいにちをやめた」だと、それこそそのまんま「死」を迎えている感じだけど、「中途半端にやめた」ことで、少しまだ希望があるというか、余白を感じさせてくれる。
「中途半端に食べ残す」というのも、まだ続きがあるような印象をもたしてくれる。
で、1番と同じ流れだったら、ここでまたサビが来るはずなんだけど、来ない。
Bメロ2回目、それもスローテンポになって。
1番と違うのは、最後の部分。
「燃え尽きて」というのは、やはり「死」≒「終わり」の連想なんだけど、やっぱりその続きとして「星になるのさ」という転生が用意されている。
「星になる」ってなんだろね。
それこそ、向こうの世界に行ってしまうという意味で、やっぱり「死」なのかもしれないか。「星」って言う時、1番にあった「地球」と対比して、「遠くにあるもの」という意味の提喩なのかもしれない。
そして、2回目のサビ。
これもまた微妙な変化がよい味。
1番では「おんがくも人をころす」だったのが、「おんがくよ、人を生かせ」となっている。
これは、「おんがく」が人をころす可能性があるという自覚があるからこそ、それが「死」ではなく、どうか「生かす」方へ機能してくれという願い。
それよりも、ここで注目しておきたいのが、この歌詞について語る最初の部分で述べたこと。
「きみは」という出だしから、この歌は誰かに宛てたメッセージ、手紙であるということ。
その「きみ」がリスナーのことなのか、歌い手の近しい人なのか、それとも未来のこれから出会う人なのか、過去に出会った今は亡き人なのか。
その真意はさておきながら、誰かに宛てた手紙のようなもの、ということで、この歌はまるで投壜通信のようだね。
え、投壜通信って何?って。
それはいつかまた話すね。手紙を壜に詰めて、海に投げるやつのこと。
あと、「おんがくよ、人を生かせ」というのは、確かに願い・欲望であって、その願い(what)をどう伝えるか(how)という点で、実際の歌では、この「生かせ」というのを3回繰り返して歌っているんだよね。
切実さが伝わってくるね。
そして、最後。
この何気ない「さ」という語尾も、やっぱり誰かに向けて歌われてくることを示しているね。その誰かが特定の誰かでなかったとしても、他者に向けられているということ。自分もまた、この記事で語尾に「ね」とかつけているのも、きっと、特定の誰かではない誰かに向けて、他者に向けて話すように書いているんだよ、ね。
「ニセモノのロックンロール」っていうのは、文脈がないからさっぱりわからないんだけど、「ぼくだけのロックンロール」ってのは、孤立感があるようだけど、それをやっぱり語尾の「さ」というところで、自分だけの閉じたものにしようとしていないで、誰かに「ぼくだけのロックンロール」を届けようとしているような気がしていて。
でも、それが届いてしまったら「ぼくだけのロックンロール」ではなくなって、「ぼくらのロックンロール」になってしまうんだけど、でも、こうやって歌にして、詞にして、表現するということの何かがきっとあるはずだと信じているからこの歌はここにあるんだと思う。
この歌は誰に届くんでしょうか。
はっきりと言えるのは、この記事を書いている自分にはまちがいなく届いてしまって、「ぼくだけのロックンロール」が少しだけでも共有されてしまったかもしれない。
だからやっぱり、この歌はこのように表現されてよかったんだと思うね。
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