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モテたいってなんだろね

今日は短いエッセイのようなもの、かな。

「あ~、モテたい」
今となってはあんまり聞くことがなくなったけれど、かつてこんな言葉を聞くことが時たまあった。
今更だけど、この言葉って一体なんなんだろね。

シンプルに言えば、モテれば、その相手は誰でもいいのかな、っていう疑問。
これって、言葉を補うならば、
「あ~、(〇〇に)モテたい」が正しい気がするんだよね。
自分がタイプだと思っている人、ずばり気になっている人にモテたいのであって、好意を抱かれてもその相手全員に応えられるかというと、おそらく多くの人はそんなことないよね。

つまりは、与えられることばかり求めたとしても、それって、こちら側の選択や判断もあるんじゃないのかな。
だから、「あ~、モテたい」に対する行動って、単に受け身であるだけではその結果は得られなくて、その「モテたい」と思える相手のことを知り、その相手が何を望んでいるのか、それに沿うことが大事なんじゃないかって。
つまりは、人に限らず、自分が好きなもの、大事なものから与えられたいのであれば、その好きなもの、大事なものをよく知り、話を聞き、深みを増さなければ、きっと手に入らない気がするんだね。

ちょっとした言葉でも、ちょっとした疑問を持つと考えが広がるね。

ここから少し脱線するんだけど、学生時代に後輩から聞いた言葉がいつまでも忘れられない。
「わかるって、簡単に言われたくない」
確かに日常会話でよく「わかる」って使われがちだけど、この言葉を聞いてから、安易に「わかる」って言えなくなってしまった。ああ、呪詛だね。
でも、この言葉を聞いた時、「あ、その気持ち、わかるな」って思ってしまった。あ、パラドックス(矛盾)になっちゃったね。
これもまた、どういう相手に言われるかによっても、「わかる」と言われた側の感情が違うような気がするんだよね。
昔からの仲で、よく話を聞いてくれる人からの「わかる」と、大した付き合いのない人からの「わかる」では、その「わかる」の重みが変わってくるような。

つまり、言葉ってのは、きっと、その発信者と受け取り手の間で同じ内容でも意味合いが変わってくるってことで。
手を抜いて仕事をしている人から「もっと頑張れよ!」とか言われても、説得力がないよね。
言っていることとやっていることが違う、的な。

相手側に何かを求めるような発言をする時、一体自らは何をしているのか、何ができるんだろうか、っていう話、だったのかな。

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