生きてくチェックポイントの話。

外に出るのはどっちかというと、たぶん嫌いだ。
特に今の季節のように、SNSのトレンドワードに猛烈な酷暑を嘆く言葉が多数入っている時など自主的に外出禁止令を出す。

それでも、月に一度ぐらいは何か個人的に大きなイベントを入れておく方が精神衛生上良いことに気がついたのは今年に入ってからである。


隠す話でもないので、サラッと話しておく。
私は20代のほとんどをうつ病と生きてきた。
世間的には華やかでいられるはずだった前半は、私にとって毎日生きていることが奇跡だった。
それは今も変わらない事ではあるのだけど、それでも20歳と30歳の四捨五入ラインを越えたあたりで、ようやく表に出るだとか人と会うだとかと言う予定を入れられるようになった。

30歳がうすぼんやりと見えてきた今。
生きる難易度をイージーまで下げていたのを、少しずつベーシックに戻すことができそうなところにいる。

それでも完全に私自身は『最初からはじめる』のようなフラットに戻せるというわけではなく、「喜怒哀楽」に1つプラスして「死」という5つの感情になってしまった。
そんな進行に問題があるけど直せないバグというか、弱くてニューゲームというかな状態で病と共に私は今日も生きている。



基本的な人間らしい日常生活を送れるようになっても、私の生まれながらの天然物ネガティブな中身は変わらない。
いつも、頭の中が空っぽになると私は明日も五体満足で生きているのだろうかと得体の知れない不安に襲われる。
鬼滅の刃の完結となる映画三部作が発表された時もそうだ。
大画面で彼らの命を懸けた最後の一夜を見られる嬉しさよりも、私の命が最後の作品まで続いているかの方が気になった。
この世に不変は無い、絶対も無い。
だから、私は不安になるのだ。



生きているというのは、命が終わる時まで続くマラソンのようだと思う。
だけど、特に私は集中が細切れにしか続かないタイプ。
なかなか見えない遠い目標はそこに辿り着く前に心が折れてしまう。
だから、適当なところにチェックポイントのように一時的なゴールを置いてまた再スタートを繰り返す生き方が合っている。

この『一時的なゴール』が、最初に言った何かしらのイベントである。
楽しみな非日常を細かく用意することで、幸せでネガティブ感情を麻痺させる。
新たに生まれた第五感情に気づく事を先延ばしにして、「私はこの先も死なずにちゃんと生きていられるはすだ」と自分で自分に暗示をかける。
これが、生きていられる実感の無さから逃げるために編み出した方法だ。

楽しみな非日常は正直、自分が楽しみに出来れば本当になんでもいい。
長年応援しているバンドのライブでも良いし。
最近、本気になりそうなお笑い芸人でも良い。
なんなら、まだ好きか嫌いかも判別できない「なんか何となく気になってる」だけの人のイベントでも良い。


しかし、ここで問題なのがそれに定めたい人や物がどれだけ人気かということである。
この世界はみんなが幸せにはなれない。
ほとんどの場合、誰もが欲する人気者(物)と時間を共にするには『抽選』という篩が存在する。
そこで、幸せになれる人とそうでない人に分けられる。


昨日私は、ランジャタイとヤーレンズの篩にかけられた。
あっけなく300人強だけが残れる伝承ホールの網目からサラサラと落とされてしまった。
私は幸せになる権利を得られなかった。

徳が足りない不純物として落とされてしまった私は、また別のゴールを探さなければならない。
私が明日も生きていられると自分に自信を持つために。


こうして私は走ってはチェックポイントという一時的なゴールとスタートの短距離走を繰り返して、マラソンのような長距離の人生を走れているのだと自分を騙し騙し毎日を進んでいく。(了)

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