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神経症日記#2 いろいろな薬

神経症との付き合いはもう2年半になる。こいつに取り憑かれたのは修士一年の冬だった。研究や生活でいろいろと行き詰まってしまい、身体が言うことを聞かなくなった。寝ついてから2〜3時間後には目が覚めてしまい、日中は頭がぼうっとして講義中に眠り込んでしまうことが増えた。

過度のストレスがかかると眠れなくなるが、眠れなくなると日中はきわめて不快な思いをしながら過ごす羽目になり、余計にストレスが溜まって眠れなくなるという悪循環が起きる。私は昔から一日8時間しっかり寝ないと身体がもたないたちで、不眠は心身ともに堪えた。
一日4〜5時間しか眠れなかった日は、何をするにしても意欲がほとんど湧かず、ネガティブなことしか考えられなくなる。

「おれは何もできない、これまでの人生で何一つ成し遂げてこなかった。おなじ年代の知人たちと比べて能力が低い。何をしても中途半端にしかならない。なにかする気力も人と会う気力もない。このまま灰色の人生が死ぬまで続いていくんだ」などと、四六時中ぐるぐる考え続けるのである。

今はだいぶんマシになったが、ちゃんと眠れなかった日の翌日は気分が沈んで大変にしんどい。そして気分が沈んだ日の夜は余計に眠れなくなってしまう。
そんなわけで、眠れない→メンタルが悪化する→余計に眠れなくなる、の悪循環を断つには、薬を使って無理矢理にでも眠るしかない。

前の病院では軽めの眠剤を1錠だけ処方されていたが、今はもう少し効き目のある眠剤を2錠と、抗鬱剤を1錠飲んで眠りについている。今のところ、これは自分に合っていると思う。

眠剤は身体に合うものを見つけるまでが難しい。私も何種類か試してみたが、あまり効き目がなかったり、強すぎて朝起きるのが辛くなったり、夜中に動悸が治らなくなったりと合わないものがいくつかあった。また眠剤だけではなくて、それを処方する医師との相性も重要で、神経症になりたての頃は試行錯誤が求められた。

薬への考え方は医者によって様々である。最初にかかった病院の医者は、不眠という形で現れている身体の訴えをむりやり薬で押さえつけるのはあまりいいことではない、と言って、薬を処方することを躊躇していた。
二番目の病院でも、軽めの眠剤を一錠だけ出して様子を見ましょう、ということで終わった。

今の病院では、身体の不調に合わせて複数種の薬を出してもらっている。今までで最もQOLは上がっているので、身体には今の処方が合っているのだと思う。神経症者は、薬を飲んでいるとなにかと周りの人間にうるさく言われる。薬は依存性があるから良くないとか、人間の体には自然治癒力が備わっているのだから薬に頼る必要はないとか、眠剤を飲んでも質のいい睡眠は取れないとか、まあ大抵言ってくるのは家族なのだが、一見もっともなようで的外れなアドバイスである。眠れないのに眠剤を飲まないのは、目が悪い人が眼鏡をかけないで過ごすようなものだ。そのままではまともに生活できないのだから、躊躇せず薬を使ったらいい。とはいえ私も当初は薬を飲むことに抵抗があった。耐性がついて効かなくなり、どんどん薬の量が増えていくのではないか、という不安があった。

確かに、医者によってはろくに患者の話を聞かないで機械的に薬を処方する人もいる。それで一向にメンタルが良くならないまま薬漬けになっていく人もいることだろう。でもきちんと患者の心身の状態を聞いて、身体との相性を見ながら薬を処方してくれる先生であれば、そこまで心配することはない。大切なのは、本人が毎日を快適に過ごせることだ。

ただ、勘違いをしないでほしいのだが、私は薬だけで神経症が治ると考えているわけではない。たしかに私は、気分や感情が薬を飲むことで簡単に変わることを知っている。だが薬は本人の考えていることや感じていることそのものにまで影響を与えることはできない。仮に人間の脳を神経スイッチが集まった電子回路だと考えても、人間の意識がその中でどうやって生まれてくるかを説明するのには、電子信号のやり取りの他に何か別の理由を持ってくる必要がある。何でも神経伝達物質の異常だと言って、こころの中で起きていることを無視するような医療のありかたには意を唱えたいものだ。

わたしの主治医も、投薬とカウンセリングは車の両輪のようなものだと語っていた。眠剤や抗鬱剤が目に見える苦しみを取り除いてくれるのに劣らず、話すこともまた薬になる。私の受けている精神分析的療法は、別に大したことをしているわけではなく、クライアントがただ心に浮かんだことを話すだけというシンプルなものだ。話す内容はその時によって異なる。初めの4回のセッションでは、それまでの生い立ちについて語る。そしてクライアントにとってカウンセリングが有効であると判断されると、そこで正式に治療契約が結ばれる。最低で週に1回、多ければ週に3〜4回通う人もいるそうだ。契約を結んでしばらくは、過去にあった辛い出来事について話すことが多かった。だが何度もそれを語っているうちに、出来事に付随する辛い感情がなくなっていき、記憶の生々しさのようなものが薄らいで、過去にあった単なる一事象として語られるようになる。それと平行して、不眠や気分の落ち込みといった身体症状が目に見えて軽減されていく。やがてセッションで話される話題は、今の生活についてや、自分の性格についてのこと、将来のことなど、それまでとは違ったものになる。話すことで心の内面に変化が起き、それがセッションでの話題に反映されていく。

トラウマ的な出来事はたしかに心に傷を残すが、出来事そのものが人を傷つけているのではない。起きた出来事に対して価値判断を下すのは常に自分自身である。苦しんでいる当人にとっては受け入れ難いことかもしれないが、やがてそのことを実感を持って理解できるようになる。そして自分の感じたことを話していくにつれ、自分自身のものの捉え方や感じ方、価値観、心の底に封じ込めている想いに自覚的になっていく。そして、それを分析家に話すことで、次第に心が軽くなっていく。話すということは、手放すことでもある。話す内容自体は深刻なものである必要ははい。とりとめもないことで構わない。それを人に受け止めてもらうというだけでも、とてつもないカタルシスを味わうことができるのだ。



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