橋本怜音

Philosopher/ Writer/ Consultant1995年川崎市生まれ。…

橋本怜音

Philosopher/ Writer/ Consultant1995年川崎市生まれ。エッセイと小説。ときどきツイキャス。

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最近の記事

神経症日記#3 物語をつくること

ある人が何か大きなものに圧倒され、立ち直れなくなるほど深く傷を負う経験をしたとしよう。たとえば津波に飲まれて、大自然の恐ろしい力によってなにもかもが押し流され、家族や友人たちの多くが死んでいったのを目の当たりにした場合、彼は自分の身に起きた出来事をどのようにして解釈するのだろうか。 ある場所で地殻変動が起き、その結果地震が発生し、断層運動によって海底が隆起もしくは沈下し、その付近の海水が上下して津波となり、この地点に到達した、というような科学的な説明が、その人の外から与えら

    • 短編原稿『五月の巡礼』四

       私はそれから何日か家に籠って、布団の中で海老のように丸まっていた。まるで闇市から帰ったきり、ずっと熱病にうなされ続けているかのようだった。家人は私を見て、すっかり呆れ果てていた。ほぼ手ぶらで帰ってきた上、毎日暗い部屋でごろごろしているのだから、無理もないことである。私は布団の中で、あの闇市での出来事を反芻し続けた。あの男が箸を折って、娘の尻めがけて投げつける瞬間の表情や、米兵の腰の拳銃、娘たちの去っていく後ろ姿を、何度も何度も思い出し続けた。そして、ある日の朝、熱病が引いた

      • 神経症日記#2 いろいろな薬

        神経症との付き合いはもう2年半になる。こいつに取り憑かれたのは修士一年の冬だった。研究や生活でいろいろと行き詰まってしまい、身体が言うことを聞かなくなった。寝ついてから2〜3時間後には目が覚めてしまい、日中は頭がぼうっとして講義中に眠り込んでしまうことが増えた。 過度のストレスがかかると眠れなくなるが、眠れなくなると日中はきわめて不快な思いをしながら過ごす羽目になり、余計にストレスが溜まって眠れなくなるという悪循環が起きる。私は昔から一日8時間しっかり寝ないと身体がもたない

        • 神経症日記

          仕事中に電話がかかってきた。前に入っていた健康保険組合からだ。今の健保に加入してからもしばらくは前の保険証を使っていたので、その期間の医療費を払い戻して今の健保に請求しなければならないとのことだ。請求の書類に症状を書く欄があって、何を書けばいいのか分からない。 かかりつけのクリニックに電話をかけた。どうも、しかじかの事情があって、病名を書かなければいけないんです。少しお待ちくださいね、カルテをお調べします。といってしばらくしてから、受付の人が戻ってきた。 「神経症、ですね

        神経症日記#3 物語をつくること

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        • 神経症日記
          3本
        • 短編作品『五月の巡礼』
          4本

        記事

          欲望について

          自分が本当に何を求めているのか、人はどのくらいはっきり分かっているものだろうか。仕事を選ぶとき、パートナーを選ぶとき、大学の専攻を選ぶとき、あなたは自分の心にどこまで素直になれているだろうか。 欲望にはしばしば、他人のものが映り込んでしまう。隣人が持っているものを自分も欲しいと勘違いしてしまい、いざそれを手にすると、思っていたほどの喜びはない。そうして他人の欲望を追いかけているうちに、自分が本当は何を求めていたのかが分からなくなってしまう。 就職活動をしている時、周りの友人

          欲望について

          怒りについて De Ira

          怒りについて、古代の賢者たちは無益なものだと説くけれども、私の周りを見る限り、また私自身について考える限り、怒ることは人間の本性と分かち難く結びついているように思える。また、怒りが存在することには一定の意義があるのかもしれない。 多くの場合、それは不当に扱われた、という実感に起因する。対等に扱われなかったり、あからさまに軽蔑されたり、自分の感情を受け止めてもらえなかったり、人と人がやっていく上で起きるトラブルには、しばしば怒りの感情が付帯する。 だが怒りは対人関係において

          怒りについて De Ira

          短編原稿『五月の巡礼』 三

           さて、五月も半ばに差し掛かると、湿気と蝉の声を除けばほぼ夏がやって来たような陽気になる。初夏の焼け跡は、煉瓦やコンクリートの照り返しで、陽炎が立つほどの熱気が充満していた。  池袋の北口は、物を売る人や浮浪者、復員兵、大荷物を抱えた人の群れでごった返していた。トタン屋根の商店が長屋状に連なり、雑多な売り物が手書きの値札とともに所狭しと並べられていた。  最も多く目につくのは飲み屋で、昼間から男たちがカウンターに凭れて、コップ酒を片手に立ち話に興じている。辺りはさまざまな食べ

          短編原稿『五月の巡礼』 三

          短編原稿『五月の巡礼(仮)』 二

           さて、私はそれからというもの、着流し姿で家の周りをぶらつくようになった。小石川の辺りはまだ家が焼け残っており、人家の生垣や商店のある往来には戦の前と変わらぬ人の生活があった。  ある日私は六義園まで足を伸ばしてみた。庭木はよく剪定され、みごとな枝振りの松が池に張り出しており、抜けるような青空を映した水面には、鯉たちが映った雲の合間を縫うかのように悠々と泳いでいた。私は橋の上に佇んで、それらの牧歌的な光景にしばし見入った。  私は、こうして六義園の庭を眺めていることが何かの嘘

          短編原稿『五月の巡礼(仮)』 二

          短編原稿『五月の巡礼』 一

           四月、艦(ふね)が佐世保に着いた。デッキの上からは内地に連なる山々が青く霞んで見え、入り組んだ湾の中には無数の小舟が行き来していた。山々のふところに抱かれた軍港の街は、すっかり新緑につつまれていた。  内火艇(ないかてい)が波止場に横付けされるなり、私は水兵に脇を抱えられて陸に上がった。 「生き残った者は屑ばかりやな」 カーキ色の軍服を着た男たちの列から外れたところで、先に別の艦から降りて煙草を呑んでいた下士官が、吐き捨てるように呟いたのが聞こえた。  それから半月ほどかか

          短編原稿『五月の巡礼』 一

          雑記『エンネアデス』Ⅴ-1 「三つの原理的なものについて(ΠΕΡΙ ΤΩΝ ΤΡΙΩΝ ΑΡΧΙΚΩΝ ΥΠΟΣΤΑΣΕΩΝ)」についての所感

           今期ゼミで扱った『エンネアデス』Ⅴ1「三つの原理的なものについて」は、①キリスト教の三一論との近似性、②豊富な比喩的表現、③魂の知的能力に沿った、プラトニズム特有の認識論という三つの大きなテーマがあり、哲学上深い意義を持った著作というだけではなく、読み物としての文体上の魅力的も備えている。  一者、知性、魂という三原理が、それぞれ独立した原理として立てられているのではなく、知性、魂はそれぞれ一者から生じ来ったものとしてあり、三つは全てその根元を同じくしている。この構造は、若

          雑記『エンネアデス』Ⅴ-1 「三つの原理的なものについて(ΠΕΡΙ ΤΩΝ ΤΡΙΩΝ ΑΡΧΙΚΩΝ ΥΠΟΣΤΑΣΕΩΝ)」についての所感

          プロティノスという男 1

           哲学研究において、研究対象への愛が必要か、という問いがある。これについて、対象への愛は必要ではないと答えることは、愛がなくても結婚はできると言うようなものだ。  僕は学部一年の冬にプロティノス(c. B.C.206-270)の『エネアデス』をはじめて手に取った。その後大学院に進学し、プロティノスは研究対象となった。これほど長い付き合いになるので、僕自身はプロティノスという男に対し、愛とまではいかないまでも、深い親しみを覚えている。  古代の哲学はなぜ魅力的なのか。それは

          プロティノスという男 1