怒りについて De Ira

怒りについて、古代の賢者たちは無益なものだと説くけれども、私の周りを見る限り、また私自身について考える限り、怒ることは人間の本性と分かち難く結びついているように思える。また、怒りが存在することには一定の意義があるのかもしれない。

多くの場合、それは不当に扱われた、という実感に起因する。対等に扱われなかったり、あからさまに軽蔑されたり、自分の感情を受け止めてもらえなかったり、人と人がやっていく上で起きるトラブルには、しばしば怒りの感情が付帯する。

だが怒りは対人関係においてのみ発生するものではなく、世界に対して、つまりは不条理な目に遭っているという実感があるときに生じるものでもある。

たとえば、私は毎日自宅の机に向かって仕事をしている。上司に膨大な量のタスクを振られ、定時には終わらないとわかっていながら、それでも机にかじりついてタスクをこなそうとする。パンデミック下ゆえろくな気晴らしもなく、平日は家に引きこもって日の目を見るのは始業前の日光浴の時間(たった5分!)くらいだ。土日にどこかへ出かけても友人に会えるわけではない。一人でカフェに入って本を読んだり執筆をしたりするくらいが今のせめてもの楽しみだ。

こんな生活がずっと続いていくのかな、と思う。一体俺は何のために生まれてきたんだろうと嘆きたくもなる。大学院を出て、ギリシア語を解して、哲学を修めた人間が、大企業の基幹システムの改修のために膨大な画面設計図と睨み合って一日を終えるとは。こんなことがあっていいわけない、と思う。

まあそんな思いをしているのは誰も同じことだろう。誰だって生きるために魂をすり減らしながら、一日8時間以上人から命じられたことをしなければならないのだ。「嫌だ」「このまま一生を終えたくない」という思いに蓋をしなければ、きっとみなまともな社会生活を送ることはできない。

この不条理に対して、みな本当は心のどこかで怒りを感じているのだけれども、どこかにその思いを忘れてきてしまっている。だが、その怒りにもう一度向き合ってみれば、人間らしい生き方とはなにか、という問いが浮かんでくるのではないか。

私は想像する。アテナイのアゴラに集まって、昼からおしゃべりに興じる市民たちの姿を。そのおしゃべりは、勇気についてであったり、美についてであったり、はたまた悲劇の品評であったりするかもしれないが、人間にとって大切なことに関わる話であることは間違いない。あるいは、体育場に集まって裸で身体を鍛える者たちや、優れた師のもとで学芸に打ち込む青年たちの姿を想像する。彼らの多くの関心ごとは、人として立派に生きることであって、金銭や地位を得ることに汲々とするものも中にはいただろうが、それは軽蔑されるべき態度であったはずだ。そして、こういった生を送るためには、一定の暇な時間(スコレー)が不可欠だ。

人が聞けば吹き出すかもしれないが、私は誰もがギリシアの自由民のような生活を送れる社会を作りたい、と思って業務・ITコンサルタントになった。まあ実態は議事録・エクセル職人だが、それでも私にはそんな理想があった。いや過去形で終わらせたくないな。

誰もが自分の卓越性(アレテー)を発揮し、よき生が送れる社会がいい社会であるに決まっている。私は少なくともそう思っている。世界に対する怒り、形のない不条理に対する怒りは、きっといつか人間らしい生き方を実現できるような社会をつくるための、革命を起こす火種になるはずだ。

さて、最初の話に戻ると、人との関係の中で生じる怒りは、世界の不条理さに対する怒りよりも、はるかに根深いものであることは疑いようがない。それが厄介なのは、親しい人に対しても、われわれがうっすら怒りを抱いていることがあるということだ。

どこかで聞いた話だが、誰かを殺す確率が最も高いのは、その配偶者だそうだ。無理もないことだ。愛情と憎しみは対になっていて、いつそれが裏返るかは誰にもわからない。

ギリシア悲劇には『メディア』という話がある。自分を捨ててコルキスという土地に嫁いだ元夫イアソンに対して、メディアは猛毒を仕込んだ贈り物を送る。そして最後は、イアソンとの間に生まれた子にも手をかけてしまう。メディアは復讐のためには、どんな手段を使うことも躊躇しない。それが自分にとって結果として無益なことであっても、純粋なイアソンへの復讐という目的のためなら平気で行ってしまう。

メディアの寓話は、決して夫婦関係のうちの極端な例ではなく、親しいもの同士の間に時として芽生える負の感情から目を背けてはならない、という教訓を残している。

ふだん人に気をつかってばかりいる人は、ふとした時に怒りを爆発させることがあるというが、それは言うなれば断層のひずみが地震を生むようなもので、はじめは対等であった人間関係が、次第にそうではなくなっていったがゆえに起こることなのだろうと私は思っている。流しにつかっていない紅茶のカップや、脱いでそのままにされた靴下が、夫婦を召使いと主人の関係に変え、やがて積りに積もって離婚の火種になることはよく承知している。(両親がそうでした)。

まあそんな悲劇を防ぐには、やはり怒りを小出しにしていくしかないと思う。なるべく相手を驚かせないうちに。まだ相手へのダメージがそこまで大きくならないうちに。

人と人同士の関係は対等であるべきだが、年月や状況が変わればやはり力の差がどうしても出てきてしまう。それは動物園の猿山を見れば誰にでも察しがつくことで、悲しいが仕方がない。

だが、猿山の猿と違って、我々はせめて言葉で抗議することができるし、最悪群れからエグジットすることができる。言葉で抗議すると、暴力をふるうよりはるかに穏便であるとはいえ、やはり多少は相手は傷つくだろう。相手が全く傷つかずに平気な顔でニコニコしていたら、それは抗議が不発に終わったということであろうから。そして、対等な関係を維持することは、健全に傷つけある関係を維持することでもあって、怒りも適切な限度に収まるものであれば、人と親しく関わる上でのいいアクセントになるはずだ。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?