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「『何者か』になる、向き合う」2023年11月15日

朝からボランティアに行くべく早起きしなきゃだったんだけど、先週の水曜日と同じように寝坊した。いつも月曜日の方が早く起きなきゃいけないのに、それは大丈夫で、水曜日はダメみたい。

朝ごはんをあまり食べられなかった。

ボランティアへ。しかし、行ってみたら思いがけず私の仕事がなかった。なので他の人の手伝いなどをして昼過ぎまでいた。

お勤め終了。今日は欲しい本を買うために街の真ん中の大きな本屋に歩いて行く。久しぶりに街を歩く。天気もすごくよくて快適で、絶好のお散歩日和って感じ。

街の中をキョロキョロ見回しながら歩くと、いろんなところで工事してることに気づく。あとはこんな店があるんだなとか、すれ違う人の服装だとか、そういうことを気にかける。

新しくできた商業ビルの中に入ってみたり、こんな店が入ってるんだなとか、あそこの店はいついつオープンするんだなとか思ったり…

本屋に着く。目当ての本をまっすぐ買って帰る。
いつだったか貰った図書カード1500円分を使う。足りないので500円を現金で払う。高い本だなぁ。しかも思ったより薄い。まぁいいか。


帰宅。それでもまだ夕方前。

夜。ヴイアラの配信を見る。
スポーツメンタルアドバイザーを招いての、候補生に対するメンタルアドバイス回だった。

ただ…

正直な印象を言えば、私にはよくわからなかった。何がわからなかったかというと、候補生たちに本当に必要な種類のメンタルアドバイスとは何か、それはこの配信でアドバイザーの方が言っていたようなことだったのか、そもそも「アドバイス」が必要なのか、カウンセリングとは違うこの手のセミナー(と思った)の意味とは何かってこと。

私は今回の番組内容について決して批判したいわけではないけれど、手放しに肯定するのも難しい。考えさせられるところがある。

アイドルにしろスポーツ選手にしろ、パフォーマーであること、それはつまり圧倒的な「何者か」でなければならないということ。そういう人に求められるメンタルっていうのはかなり特殊だと思う。

だって圧倒的な「何者か」になるなんて無茶な話だもの。なぜなら普通の人にそんなことが務まるはずもないというか、そんなことを上辺だけ求めたところで虚しくてしょうがないだろうから。

だってそんなものないし。最初から「何者か」である人なんていないし、「何者か」になりたい人が目指しているその人にだって具体的なロールモデルがあるはず。「何者か」は評価だし、評価は後付けだし、本人以外の誰かがするもの。当の本人はそんなつもりないことがほとんどじゃない?ただ、実直に生きてきただけで、周りの人がそこに「何者か」を見出しているにすぎないのでは?

だから、「何者か」になることを考えるのは必然的に過去向きの思考、他者の目を気にする思考、資本主義社会で自分を商品に仕立て上げる思考だと言えるんじゃないかしら。基本的には。

その視点に立った時、悩むこと、辛いと思うこと、上手くいかないこと、不安に感じること…それらはすべて邪魔なものと判断される。でも、私が思うに、そういった欠けている部分にこそその人のリアルな生が現れてくるんじゃないのかな。

私たちは、自分がそつなくできることについては普段意識しない。身体的なところでは呼吸がそうだし、日常的には家族や友達との会話もそう…。でも走ったあとでいつもの呼吸ができない時、苦手な相手や場所で話をしなければならない時に初めてその上手くできなさが意識される。

何かに不安になるとか、心配になるとか、誰かに対して劣等感を抱くとか、人をちゃんと信じられないとか、そういうのも多分、何かしらの上手くいってなさとか嚙み合ってなさから生まれたものな気がする。

たとえば人を信じれないことについて考えてみるなら…
それが悩みとしてあって、生活上の不安とか辛さになっているんだとしたら、その背景を例えばこう考えられる。他人を信じることで生きやすいこの社会、でもそれができない苦しさと生きづらさ、他人に対する期待が裏切られる怖さ、そして実際に裏切られたという経験…

そしていったん人を信じられなくなると、今度は他人からまっすぐ信じてると伝えられた時にすらそれを素直に受け止められない自分を責めたくなるかもしれない。

本当は人を信頼したいのだけど、した方が楽なのはわかってるけど、できない。歩きたいのに、一歩踏み出すたびに石に躓くような煩わしさ。これはもはやトラウマを背負っていると言っていいようなものだろうけど、この板挟み的にどうしようもない苦しみにこそその人の人生が象徴されている。

臨床的には、認知行動療法などで「そんなに人はあなたのことを裏切ったり利用しようとは思ってないよ」と伝えるのかもしれない。ただ完璧ではない。寛解でしかない…。それでもやっぱり大事なのは、そのトラウマと向き合うこと。

向き合い続けることは、根気がいるし辛くもあるけれど、ある意味いつもやってることでもある。そしてその効用は必ずあって、それはだんだんソイツをモノとして扱えるようになっていくこと。思考の対象になっていくんだと思う。

ただやみくもに向き合ってもしょうがない。カウンセラーが登場するのはここだと思う。多大な時間と労力が必要になるこの向き合いの、多少は役に立つお供として…。

話を戻すと、「何者か」になる上で邪険にされるものは、しばしばこの向き合いの対象となるべきものだったりするんじゃないかな。私の印象として、先のアドバイザーの方はプラクティカルな正しさを持った人のように見えた。つまり、上手に生活を送れるようにする実践的なアドバイスを紹介する人として。

これはこれで真っ当だし、多くの人に周知すべき知見もあったと思う。体調と同じように心にも心調というのがあって、それを整える技術というのはあると思う。自分がストレスを感じている時のSOSサインを知って、その時は心が休めることをするとか、自分に自信がない時にはそれでも周りに自分のことを認めてくれる人がいるって思い出すとかね。自分で自分を労わったり、もしくは鼓舞する技術が。

でも、そういった技術が意味をもつ範囲はそこまで深くない気がする。それらは一度湧き上がってしまった悩み…思いが、なぜ生まれてしまったのかということについて問うものではなく、それを他の思いと混ぜて薄めたり、客観的な次元に持っていって矮小化させたりするものだったりしてはないのかな。

繰り返すようだけど、これは社会生活する上では誰にとっても大事なことだと思う。「何者か」になる上でならもっと。ヴイアラの企画としてはそんな技術アドバイスこそうってつけなのは間違いない。

それでも私が「向き合う」ことについてこれだけ熱く喋ってきたのは、本当にまったく余計なお世話だけれど、彼女たち自身にとっての”自分というあり方”を大事にしてほしい気持ちがあるから。いやま、別に彼女たちに限らず多くの人(特に思春期の人)が必要に応じてそうできたら良いと思ってる。

ただ彼女たちの話を聞いていると、そんな機会がすぐ近くにあってほしいと願ってしょうがない。なんだか、彼女たちにとって仕事上の悩みと”自分というあり方”にまつわる悩みがとっても近いところにあるように感じるから。両方の悩みについて、それぞれ相応しい対応をしてあげた方が後のためになるんじゃないか…そういう予感が働いている。

そうやって”自分というあり方”を確立しながら「何者か」をやるなら、それは中身を伴った「何者か」と言えると思うし、そうなった時にはもう「何者か」は自分を支配してこないだろうし、もしかするとそれは「自分」でしかなくなってるかもしれない。わからんけど。

とにかく、ヴイアラ運営が彼女たちのすぐ近くに公認心理師か臨床心理士へのアクセスを用意しているといいな…


しかしこんなに書くつもりじゃなかったけど…
私、ヴイアラに本気すぎ?



※追記
公認心理師とか臨床心理士とか書いたから若干ものものしくなってしまったけど、私が言いたいのは、ちゃんと考える時間を取ってほしいなってことです。ただでさえ忙しいのだから、せめて立ち止まってじっと考えるまとまった時間と、安心して悩める場を持ってほしいな、と…

※※追々記
ここで書いたのは、たしかにヴイアラを題材とはしつつも、軸としては私個人の考えをまとめたものにすぎない。でも私ちょっと声デカすぎかもしれない。ただはっきりさせておきたいのは、私は決して「プロデューサー」ではなく、今後も「プロデューサー」にはならないということ。なのでもし「いやオメェ、Pでもないのにそんなこと言うな!」ってことを私が言ってたら、すません。

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