見出し画像

“ 見ることは、愛 ” 【 本日のちょーれー 】 -ほめる-

私はとある面白い会社の社員でもあります。笑

その会社では毎日朝礼を行なっております。

”業務連絡はしない!” というおかしな朝礼です。笑

でもこれがなかなか面白いのです。

今回のテーマは ”褒める”

※朝礼で出た内容等は転載しておりません。
朝礼を通して自分の中から出てきたもののみを書いております♪


↓↓↓

先日の朝礼のテーマは”褒める”
私がファシリだったのでテーマ設定も私。

事の発端はわたしが仲間に対して、めっちゃいいなぁと思うところをただ事実として伝えたことに対して「めっちゃ褒められた〜!落ち込んだ時に回復剤としてコピペしとく!」と言ってくれたこと。

わたしとしては褒めたと言う意識が全くなかったので、良い意味でびっくりしたのです。

それと、子育てにおいては特に、褒めるって良いことって言われることもあるし、よくないって言われることもあって、みんなの”褒める”事情について聞いてみたかったのです。

私としては褒めるって実体がないなぁと思ったのが最初に出てきたこと。

元々、褒めるってあんまり好きじゃなくて、価値を伝えてるだけやなと思っていることに気づきました。


私は昔から、大人の都合にとって良い子供だった時にだけ褒められてきたタイプです。

自分が頑張ったとか、努力したとか、優しさを発揮したとか、誰かのために頑張ったとかそういうところは全く何も言われずに、勉強したからとか『親や大人にとって』良い子供の振る舞いをした時に褒められる。

そうなると、動機とか心根とか想いとかどうでも良くなる。
もっと言うと、心の中で舌を出していても、行動さえ合わせておけば褒められると言うこと。

それはとても寂しいことでした。
自分がいなくても良い感覚。
人としてまっすぐ生きることを軽んじられてる感覚。

そして、そういう時の大人たちは、私ではなくて自分自身を見ていたんだと思います。
私がどうなのか?ではなく、自分の立場でどうなのか、どう周りから見られるか。
それに合う子が満足。そうなるとつまりそれは、私個人はどうでもいいということ。

だから、とても寂しかった。
寂しいから、認めて欲しい。
そして、それにそぐわないと責められる。
となると、認めて欲しくて褒めて欲しくて、もっと”良い子”になる。

けれどそれは、本当にやりたいことではなくて、本当に人としての愛から起こったものではなくて、「こうやっていたら褒められる」という欺き。

だから、褒められれば褒められるほど、「大人なんてちょろい」と思ったし、自分が誇らしいというところから外れていく。
自信もなくなり、嫌なやつになっていく。

でも、寂しいよりは価値がないよりはマシ。
でも、その価値は「私自身」を表したものではないから、「本当の私」を認めて欲しくて、承認欲求の塊になっていった。
そんな、くれくれちゃんの時もながぁぁぁーくありました。苦笑

みんなの意見を聞きながら、承認欲求の塊になるメカニズムやいろんなことがわかり、整理されていきました。

“相手をちゃんと見る”
“そのままの相手をちゃんと受け入れる”

それがあるから、きちんと相手が「理解された、認められた」と感じられる、相手にとって「自分のための言葉」を届けられるのではないだろうか。

「どんな言葉をかけるのか?」よりも、どれだけ相手を気にかけて、関心を持って、見て、理解しているか。

その姿勢の話なのかもしれないです。

言霊はエネルギー。
とってつけた言葉は薄っぺらい。

だからこそ、ちゃんと見つめて、心を砕いた上での言葉は”相手の存在”が入っている。
それを受け手が感じられた時に、嬉しさを覚え、そして「褒められた」と思うのでしょう。

確かに、人知れず努力してたことを見ててくれて、そこを褒められた時、とっても嬉しいもんなぁ。

こないだも、自分でも思いもしなかったところを見ててくれて褒めてくれたの嬉しかったもんなぁ。

“ 見ることは、愛 ”と以前教えてもらいました。相手を見ることは愛ですよと。
それは、こういうこと。

結局、何を言うか、どんな言葉をかけるのかというのは重要ではなく、そういう関わりの 結果 生まれるものが”褒められた”っていうことなのだと思います。

以上です。

ありがとうございました♪

どなた様かのお役に立てましたら嬉しいです♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?