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いいじまホビーのこと

(この記事は2012年11月に取材したものです。当時「いわき駅前商店_勝手に会議室」なるものを数人で運営しており、勝手に街なかを取材して勝手にフリーペーパーを作っていました。2023年3月に投稿された下の記事が周囲で話題になり、

SNS上でこのフリーペーパーの画像を紹介したところ、是非街なかの貴重な財産としてWEBに上げて欲しいとリクエストをいただきましたので、改めてこちらに投稿することにしました)

いいじまホビー伝 ~戦後模型記~

 飯島ホビーさんの取材に行ってきました! いやー、もんの凄く濃い話をして頂きました(笑) 早速ご紹介させて頂きます。 

―本日はよろしくお願いします
はい。よろしくお願いします。
 ―飯島ホビーさんって、僕が子供の頃から営業されてますが、何年くらいやってらっしゃるんですか?
 そうですね。もう六十五年になりますね。昭和二十二年からやっております。創業前は高度10000mを飛ぶB29を撃墜する為、三重県で紫電改の高度を500m高くする設計の仕事をしていました。当時の日本はジェラルミンが枯渇していたので、より重い亜鉛合板(鉄)を使用し且つ高く飛ばす設計。大変な仕事だった。昭和二十年四月に徴兵され八月に終戦。終戦時は兵役の給料一円五十銭が全財産だったな。汽車で三重からいわき(平市)に帰る際に沼津を通ったのだがそこで「塩作り要員求む」の看板が目に入ったんだよ。これから何をするにも、種銭は必要だなーと思って、そこで塩を作って稼ぐ事にしたんだ。実際塩作りをしようと他の仕事人のやり方を見ていたんだけど、そこの職人は「生木のおが屑」「ペラペラのトタンの塩焼き器」「濾過無し」で塩を作っていたから、品質が悪かったんだ。生木のおが屑では火力も弱いし、薄いトタンでは焼き器もすぐに悪くなる。これでは駄目だと思って、生木のおが屑は太陽熱で熱した海岸で拾った石を敷き詰めた上で乾燥させ、分厚い金属板を拾っては丈夫な塩焼き器を叩いて作り、落ちていた風呂釜で海水の濾過器を作ったんだ。当時は一面焼け野原だったので、必要な部材はそこらじゅうに落ちていた。工夫次第でどうとでも出来たんだね。そうやって出来た塩は真っ白い、そりゃぁ上質なモンだったよ。出来た塩は闇市でさばくのだけれど、普通の人が運んだんではすぐに見つかって捨てられてしまうから、国鉄の職員に買ってもらっていたんだ。何せ鉄道の職員だからあの人達ならうまい事ごまかせたたんだね。そうしたら、余りにも良く出来た塩だった為、闇市で評判を呼び、山梨県の農協から正式な仕事を貰う事が出来た。宣伝も何もしてないんだけどね。そうこうしている内に一年と半年ばかりで五円程の種銭が出来たのでいわきに帰ってきたんだ。

 いわきに帰ってから、たまたま新聞で「模型は作って良し」とのおふれを見かけたから、大きなリュックサックを背負って東京に仕入れにいったんだ。戦前は学校の授業で飛行機の模型を作っていたんだけれど、(一~三年生はグライダー型の手飛ばし飛行機。四~六年生はプロペラ式の飛行機)マッカーサーが来てからは、学校での飛行機模型作りは禁止されてしまったんだよ。だから模型問屋には大量の在庫が余っていたんだね。だーれも買わない模型をリュックサック一杯に模型を仕入れたもんだから問屋さんも喜んだもんだよ。その問屋さんとは今でも付き合いがあるね。それから大黒屋呉服店(大黒屋デパート)の一角でショーケースを一つお借りして模型店を始めたんだよ。隣は田中カメラさんだったなぁ。それが昭和二十二年。それから六十五年間ずっと私は模型店をやってきました。大黒屋さんがデパートになる際に「中でやらないか?」とお誘いを受けたんだけどデパートの人間になるのが嫌だったから、鍛冶町に自分の店を構えたんだ。

 

 木工所というか、子供達が制作を楽しめる環境を整えてね。道具も貸してあげて。そこで私が模型作りを教えてたんだ。ただ当時はとにかく動力がなくてね。鉄道模型のモーターでは電気を食いすぎて、およびでない感じだったんだ。ちなみに当時の鉄道模型もプラスチックではなくて、やはり焼け野原から拾ってきた部材で作られたものだったんだよ。マブチモーターって会社があるでしょ? あそこのマブチさんも、ラジオのスピーカーを全国から拾い集めて弱電モーターを作ってたんだ。マグネットモーターって言ってね。画期的だったんだ。マブチさんのモーターは乾電池(単一)一つで動く。子供達には「乾電池はお金をためて買うんだよ。そうすれば長く遊べるから」って言ってたもんだ。色々な模型作りを教えたなぁ。子供ら沢山連れてね。ここら辺は向こうの山まで見渡せる程の田んぼだったからそこでプロペラ飛行機を飛ばして遊ばせていたよ。それでもやっぱり乾電池は高かったから、色々工夫して遊びを提供したもんだよ。電池は高い。風力は無料。ならヨットを作ろう!(笑)ってね。廃材の木、破れた障子を使って90cm程の立派なヨットを作ったんだ。紙にゴムが混じった安いニスを塗って防水してね。この安いニスがまた都合が良かったんだ。ゴムが混じってるから自由に整形出来るからね。出来たヨットは泉駅近くの河口で滑らせて遊ばせたんだよ。ここら辺の子供らは皆ヨットを持ってた(笑)それを持って鉄道に乗ってね。そういう時代でした。

 しばらくしてから、プラモデルが出始めたんだ。郡山に米軍の駐屯地があってね。その中の売店に、かなり高かったんだけどプラモデルが売っていたんだ。試しに仕入れてみたらあっという間に売れてしまった。これはもしかしたらプラモデルの時代がくるかもしれんぞと思っていたら、国産のプラモデルがタミヤから発売されたんだ。米国からノーチラス号の型を買ったんだね。当時はこれ一つしか無かったんだけど、良く売れたよ。それからプラモデル全盛期が始まったんだよ。国内のメーカーが皆プラモデル製造に切り替えたんだ。その内、ラジコン飛行機とかラジコンカーが出始めてね。ラジコン飛行機も、飛ばし方を無料で教えてたんだ。ここら辺でラジコン飛行機を飛ばせる人を増やしたってのが私の功績かな? ラジコンカーにしても、レース場を作ってね。遊ばせたよ。レース場の運営も大変でね。皆ガンガンに飛ばすでしょ(笑)ラジコンの方がすぐ駄目になっちゃうんだ。コースからすっとんでったり、タイヤが磨り減ったりね。「レース場が儲かるらしい」と言ってこの辺にも三~四軒くらい出来たんだけど、どれも三~四年で店たたんじゃってたな。対応出来なかったんだね。壊れて治してって手間がとれなかったんだろうね。私んトコは、自分で治すっていうのが当たり前だったからね。


 古いお店に歴史有り。取材を通して、商店に買い物をしに行く「だけ」では余りにもったいないと感じました。そこで生活をしている「人」そのものが、商店街の財産です。買い物だけでなく、コミュニケーションの中にこそかけがえのない「価値」が潜んでいるのかもしれません。皆さんも「宝探し」を楽しんでみませんか?楽しいですよ!

いいじまホビー
いわき市平南町72-2 0246-22-6414
(取材)もりたか屋

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