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ちょっと横道にそれていいですか?

これらの素敵な出会いに関係して、後日談があります。
一つは雑誌Outdoorで出会ったフライフィッシング。
あの頃フライフィッシングは大阪のハナタレ小僧にとってまだ未知の釣りでした。フライフィッシングというのは西洋の毛鉤釣りのことなんですが、中学生の頃、天王寺のアポロビルにあった釣具屋さんに、ガラスケースに飾られたフライロッドを見たのが最初の出会いだったように思います。なんかめっちゃ高級そうに飾られてるし、変わった糸とリールが付いてるし、これは一体何じゃ?っていうのがハナタレ小僧の第一印象。そして値札を見てびっくり仰天。確か10数万円の値段が付けられていたと思います。今でもけっこうすごい値段だと思いますが、あの頃の10数万円ですからね。なんじゃこりゃーー!です。貧乏中学生にとって一生こんな道具は持てないだろうと推測されました。値札のプレートにはOrvis(オービス)と書かれていました。

それから時がたった40数年後。57歳になった私は、ニューヨークのOrvis本店に立っていました。ついに来たぞ、と感慨にふけっていると、初老の販売員が声をかけてきました。
「なにかお探しですか?」
「いえ、ちょっと見させてください」
「いいですよ、ごゆっくりしていってください」
上品な身のこなしで持ち場に戻ろうとしたその人に思わず話をせずにいられなくなりました。
「私は日本から来ました。私がまだ子供だった頃、町の釣具店で初めてフライフィッシングの道具と出会ったのです。その竿にはOrvisと書いてありました。ただものすごく高かった。貧乏だったのでとても買えません。毎日のようにその釣具屋に通っては、ガラスケースに顔をひっつけながら眺めていたものです。それから40年、いま私はここに立っています。」
それを聞いた初老のその店員はゆっくりと近寄ってきて、私をゆっくりと抱きしめてくれました。ゆっくりと、力強く。
「コーヒーでも入れますよ。ゆっくり心ゆくまで見ていってください」

横道その②

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もう一つの後日談は雑誌「ウッディライフ」の記事にあったログハウスに関して。
雑誌の特集記事にカナダのログビルディングスクールの事が書かれていました。ログハウスの作り方を教えてくれる学校ですね。そんな学校があるんだ!と驚きでした。学校の名前は「B・アランマッキースクール オブ ログビルディング」。バンクーバー大学で講座をもつ、近代ログビルディングの権威の学校でした。その連絡先が書かれているページをちぎって、ずっとお守りのように財布に入れていたのです。高校時代、北海道でも外国に思えたのに、カナダまで行ってそんな学校に入るなんてそれこそ夢物語。でもなぜか気になってずっと財布に入れていたのです。北海道に渡ったあともずっとずっと持っていました。

生活費を稼ぐためにバイトバイトの毎日を過ごしていた大学時代のある日、何かの支払いをしようとした時にポロッとその記事の紙切れが落ちたのです。ああ、まだ持っていたのか、これ。っとひろった時に、ふと思いつきました。ん?今これだけ稼いでいるから、ひょっとして本気でお金貯めたら、行ける?
夢が現実になる!というか現実にできる!とわかって猛烈にお金をため始めました。このあたり牧場をはじめよう!と思った動機と似ています。できないと思っていたことができるんだ!

あの頃はインターネットなどありませんから、片道半月近くかかる国際郵便で学校側とやり取りしました。だいたい高校時代の古い雑誌の切り抜きだけが頼りなので、今でもその学校があるのかさえもわかりませんでした。英語?話せません、話せません。大事なことなのでもう一度いいますね。「話せません」(笑)。必死で辞書引いてのやり取りです。無事授業料を送り込み、残った20万円ほどをトラベラーズチェックに変えて(懐かし~~~)、大学3年生の時ひとりカナダに飛びました。

カナダ、ブリティッシュコロンビア州のど田舎の、プリンスジョージという町の、これまた町からけっこう離れた原生林の中にその学校はありましたが、バンクーバーからグレイハウンドバスにのってその町に着いたはいいものの、迎えに来てくれる予定だった学校の人がいない!つたない英語を駆使してタクシーでなんとかたどり着いた学校は、グリズリーの親子が直ぐ側の森を横切ったり、湖畔にあったサウナに入ってそのまま湖に飛び込むと、大きなムースが一緒に湖に入っていたり・・・・夢のような場所でした。2ヶ月のベーシックコースに入学し、授業で建てられたログハウスに寝泊まりしながら、まるで「大草原の小さな家」のような生活。斧一本で大木を倒すところから、小さなログハウスを1棟建ててしまうコースで、世界各地から集まった大男たちに混じって必死でチェーンソーを操る毎日でした。私の他には日本人は一人もおらず、私より1年前にあの三浦雄一郎さんの息子さんが入学していたと聞きました。

実は大学を卒業する時にログハウスの会社の立ち上げを手伝ってくれないかと頼まれたことがあります。日本でも本格的なログハウスブームが到来していました。心がグラっと動いたんですが、いやいや、人の家を建てたいわけではない、ログハウスを建てられたらOKというわけではなくて、ログハウスを取り巻くライフスタイルをしたいんだよ、とそのお話を断った経緯があります。いまその会社はブームに乗って大きな会社となっているようです。自分のためのログハウスは、牧場の仕事に追われて若い間になかなか実現できず、そうこうするうちにレストランやスイーツなどの事業を始めたので、結局今まで建てられないでいるんです。なんせ人に作ってもらうログハウスなんて意味がないですからね!高校時代に感じた「自分の家を自分で建てられるんだ!」っていう感動をいつまでも大切にしたいと思い、老後の楽しみにとってあります(^_^;)。でも、あの頃、ログハウスの正確な技術を勉強した人は数少なかったですから、各地から教えてくれないかと依頼がありました。北海道十勝の北部、十勝三股にある「三俣山荘」は私が少し手伝わせて頂いたログハウスの一つです。四半世紀以上たった今、とてもいい雰囲気のログハウスになっています。カフェもあるので機会があったらぜひ一度立ち寄ってみてください。

横道その③

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ログビルディングスクールを卒業したあとは、ヒッチハイクでカリフォルニアまで南下し、これも雑誌「Outdoor」で記事を見て憧れた、ヨセミテ国立公園で1ヶ月過ごしました。有名な観光地ですが、ロッククライミングの聖地でもあります。実はわたし、ロッククライマーでもあったのです・・・(体は今の半分くらいでしたからね!(笑))世界からクライマーが集まる伝説のキャンプ上に粗末なテントを張り、掲示板に「○○クラス(ルートの難易度)までOK。相棒のぞむ」と張り出し、今日はフランス人、別の日はドイツ人というふうに、毎日いろんな国のクライマーとペアを組んで登っていました。今では超有名になってしまったアウトドアウェアメーカー「パタゴニア」の創業者、イボン・シュイナード氏とも簡単なルートを共にしたことがあります。まだヨセミテでロッククライミングをしている日本人は珍しかったですから、「日本人?めずらしいね。ちょっと一緒に登る?」って声をかけてくれて・・・・。伝説の人ですからね。カチン・コチン、アタマだけが上下して「登ります、登ります!」ってカクカクなってるの(笑) 英語? 3ヶ月も外国にいたらね、カタコトクライは喋られるようになってたアルヨ。

ふと見たテレビドラマから、ふと手にした雑誌から夢物語がはじまり、その「夢物語」はチャンスさえあれば「現実」にできるんだ、という発見をした若き日々でありました。そしてそんな体験は「牧場をはじめよう!」の下地となって、チャンスが訪れた時に、チャンスの神様の後ろ髪をしっかりつかむ度胸をつけていってくれたのかもしれません。

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