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10年前の3月、心に残った話

昨日で東日本大震災から10年、あっという間に感じます。10年前の私は大学卒業の年でした。大会場で行われるはずだった卒業式は震災後の自粛ムードの煽りを受けて中止になりましたが、午後の学科別集会では、無事に大学内の教室に卒業生が集まりました。
私はあまり学科で友達を作れなかったのでよく知らないけれど、中にはきっと身近な人が被災しているとか、被災地域の友人知人と連絡が取れない子もいたでしょうし、水道などのライフラインが断たれ不便な生活を強いられていた子もいたかもしれません。
それぞれが袴やスーツやドレスなどで華々しく着飾りながらも、きっと多かれ少なかれ、あの場にいた全員の頭から「不安」の2文字は離れなかったのではないかと思います。

例にもれず私も、頭の中は不安だらけでした。また、余震が来るのではないか。原発事故で、空気は、食べ物は、汚染されていないのだろうか。震災とは関係のない不安もありました。これから私は社会人として上手くやっていけるのだろうか…と。

その学科集会ではうちの学科のある教授がスピーチをしてくれたのですが、その中で紹介されていた事例がとても印象的でした。

「何かが起こるかもしれない」という予期不安からくるストレスと、実際にその「何か」が起こってしまった時に感じるストレスとを比較した場合では、前者では後者の倍以上のストレスが検出されるというデータがある、と。

少し遡りますが、私がその教授に初めて出会ったのは、高校生の時に参加した大学のオープンキャンパスでの模擬授業でした。
見た目も性格もひとクセふたクセある先生でしたが、高校生にも分かるように噛み砕いて講義をしてくれました。授業内容が面白かったのはもちろん、人を惹き付ける話し方や切り口の鋭さ、おちゃめでユーモラスな人柄に私はいわば「一目惚れ」し、もしこの大学に入れたら絶対この学科に行こうと思いました。とか言いながら、結局その先生のゼミは取らなかったのですが。

話を戻して、学科集会での教授の話について。

起こりうる事態を予測し、備えることはとても重要です。だけど、どんなに考えて考えて、出来うる限りの準備や予防策を取っていたとしても、起こってしまう事はある。
もちろん何も起こらないのが一番ですが、予測のつかないことに対して根拠もなくむやみやたらに不安がったり憂いたりする必要はないのかもしれない…とこの時の私は受け取りました。
被災したワケでも何でもない私。特段何も生活に不便があるでもないのに漠然と不安を抱えて過ごすのであれば、自分が今やるべきことを考えて生きよう。社会人として、震災後の混乱の中で働ける状況に感謝しながら、精一杯仕事をして自分なりに社会に貢献しよう。そんな風に思いました。

私は彼の授業を取っていただけの関わりの薄い学生でしたが、彼が亡き今でも、姿の見えないものや実体のないものに対する不安や恐怖を強く感じた時は、この話を思い出します。
未だ終息が見えないコロナや、復職できない自分に対する不安もあるけれど、とりあえず今の自分に出来ることをやっていこう…と。