誰がために獣を狩る

誰がために獣を狩る

*2016年3月28日に書いた記事のリライトです。

岡山県西粟倉村にあるフレル食堂。その主催イベント「猟師×猟師」に参加してきた。
スピーカーは「僕は猟師になった」著者で、ジビエブームの火付け役とも言われる千松信也さん。
そして我らが岡山が誇るスーパー最野人、蜂追いから狩猟までなんでもござれの「あつたや」熱田安武さん。
そしてなんと特別ゲストで「山賊ダイアリー」著者で岡山県津山在住の岡本健太郎さんも飛び入り参加。

お三方が狩猟を始めたきっかけから、わなのワイヤーの結び方というニッチな狩猟ばなしまで、とても短く感じられた3時間+延長飲みだったのだけれど。
その中でも、獣を狩り、殺め、その肉を販売していた者として、千松さんのセリフがぐっときた。

「俺の人生の中で捌ける獣の数なんかしれてる。心込めて獲って捌いた肉をグラム500円とか1000円かそこらで顔も見えない誰かに食わすなんてやってらんねぇ。顔の見える誰かに食べて欲しい。旨いだろって。」

そうだよ。そうなんですよって。
自分が考えていたことをパシッと言語化してもらって、そして勇気をもらえた。
これから僕がやろうとしていることも、間違いではないのかなと。

そしてもうひとつ記憶に残っているのは、
「狩猟をしていくうえで辛いことは?」という、熱田さんからの問いから始まったはなし。
狩猟。生き物を殺めるという行為。
たしかに獣害を減らすために鹿や猪を獲れば、村の人たちに喜ばれるかもしれない。でも、誰かのために狩猟を続けるってしんどい。自分自身の中で能動的に、自分から狩猟に向き合う何かがないと続けてなんていられない。
そういう葛藤のなかで狩猟と向き合っているお三方のはなしが聞けたことで、一人の狩猟者として本当に勇気をもらえた。

今、自分のなかで狩猟への向き合い方として持っている確かなもの。
それは、すべては自分のためということ。
僕は自分が獲った獣を、自分が胸張って食わせられるくらい旨い肉にして、自分の大切な人に食べて欲しい。そして旨いなって言ってくれて笑顔になってくれたら最高に嬉しい。
その欲求が全て。

僕は “it’s my pleasure” という英語が大好きで、それはまた別の機会に書くと思うんだけど。
とにかく、全部、自分のため。
顔の見えない誰かのためじゃなくて僕が大切な人に喜んで欲しいから、その人が喜んでくれるようにと勝手にやってるだけ。

獣を殺めるのも、獣害を減らすためと言えば聞こえはいいのかもしれないけど。
人間の勝手な正義を振りかざしてるだけで、なんというか、向き合ってないとおもう。生命に。真摯に。
農家の◯◯さんに喜んでほしいんだ。俺が。それに俺の畑荒らされるのもムカつくんだよ。獣に負けてられっかよ。人間なめんなよ。俺は俺のためにあいつらを駆逐してやんだよって。
それくらいの気持ちで獣を殺めているんだったら、それだったら真摯だなぁって。

これから僕は狩猟を仕事にしていくわけなんだけど。
生命に、真摯に向き合う。その姿勢だけは崩したくないなと。
あらためてそう思わせてくれる素敵なイベントでした。
……つぎは俺も前に座れるように頑張ろ。笑

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2019年10月23日 加筆;

このイベントに参加した後、ぼくは西粟倉村で地域おこし協力隊として活動を開始。廃校になった小学校の給食室の一角を改修し、自身の獣肉処理施設を開設し運営することになった。
しかし、雪深く寒い冬の間に、ひとりで獣を殺めて捌き続けることに耐えられなくなり、心身に支障をきたして2017年の春には村を出ることを選択した。
お腹の膨らんだ雌鹿を殺し、その腹を割いて胎児のボロンと出てきたときに、どうにも、ぼくのなかにあるコップから水が溢れてしまい、耐えられなくなってしまった。
それまでも子持ちの鹿を捌いたことは何度もあったし、平気だと、慣れたことだと言い聞かせていたんだけど、当時のぼくには耐えられなかった。

当時、村では狩猟と獣肉処理を仕事としておこなっていた。
毎日、それがずっと続いていくことが恐ろしくなってしまったんだと思う。最後には自分の手がけた肉が売れて、お客さんができることさえ怖くなってしまうようになっていた。
要するに覚悟がなかったんだ。始めてみれば、続けていけばどうにかなると思っていたんだけど、…ぼくには向いていなかったんだろうな。

実は、村を出てからも、何度も鹿や猪を捌いたりはしている。
けれどそれは仕事としてではなく、自分が食べる分、自分たちで使う分だけ。
この夏の無人島生活の間でも、タヌキや猪を獲り捌いて食べていた。

改めて、当時の千松さんの言葉、熱田さんの投げかけた問いが、ぼくにつきささる。
狩猟をやらなきゃよかった、そんなことは1mmも思っちゃいない。その道のプロとして仕事を続けることはできなかったが、大切な大切な経験と技術として、ぼくのなかで今までもこれからも息づいていくだろう。

誰がために獣を狩るのか。
ぼくが奪った生命たちは、いまもぼくのなかにあるのだろう。
誰がために獣を狩るのか。
狩猟との向き合いかたに正解はない、そう思いたい。
誰がために獣を狩るのか。
それを自らに問い続けることが、獣の生命を奪う狩猟者としての贖罪のひとつではないのだろうか。

そんなことを、いま改めて、考えている。

i hope our life is worth living.

またひとつさきへ