見出し画像

燈火節異文|「海の呪縛」フィオナ・マクラウド

女が代々よよに受け嗣ぐものは海の波のやうに塩からい。あるものは血の中に海の塩を交ぜてしづめがたい煩悶もだえをもち、或るものの心にはたえず波が立ち、また或るものは家を捨ててさまよひ、さまよひ、一生を終る。世界の母イヴから世界の女といふ女に永久に伝へられた遺産である。
片山廣子「四つの市」より

海の呪縛

 昔の魔術的な著述家たちは、わたしたちの誰のうちにも存在する隠された扉である、元素との親和性について記している。扉を見つけよ、そうすればおまえは魂に至る道に立つことになるのだ、彼らは要するにそう言っている。火の子がいれば、大気の子、地の子、そして水の子もいる。さらに人間の強みや弱み、美徳や悪徳までもが、これら元素の働きに帰せられる。これこれの美徳は火のものである、これこれの資質は大気のものである、これこれの短所は水のものである。これがどのていど妥当なのかはともかく、わたしたちのなかには、たしかにあの古くからの一族、古い伝説が云うように、血の中に海の水が混じる者たちがいる。あまたの伝説、あまたの詩、あまたの言い習わしがフロイン・ナ・ワラ、すなわち海の子らについて語っている。わたしはそんな話を漁師から、内陸の羊飼いから、はるか遠い謎めいた深みから訪れる者といっては、はぐれたカモメか南からのぼってくる雲よりほかにない内陸の荒地の民からも聞いたことがある。ある者は海の恐怖を語り、ある者は海の神秘なることを、ある者は海の邪なること、また海に属し海に潜む邪なるものたちを、ある者は海の美しさを、ある者は魅惑を語り(異国の海の声であり危険な音楽であり、あやしく破滅的な美しさの権化であるシレーンたちについて古代のギリシャ人が語ったように)、またある者は特定の男たちや女たち、つまりフロイン・ナ・ワラの心の奥底に隠された秘めやかな呪文、心底にわだかまり、やすらぎをゆるさず、魂を風の孤独に駆りたて、外面的な生活をきまぐれな波に翻弄させるものについて語る。二千年以上前、こういったことを念頭に、偉大なピンダロスは「故郷のものを軽蔑し、遠く離れたものを見つめ、けっして満たされない望みを抱いて逃げ足の速い獲物を追いかける」奇妙な一族について記した。

 この海の呪縛、(島の言葉を英語風に記すなら)ブローナワラ、すなわち海の悲しみについてはすでによそで書いたことがあるため、ここではそういった風変わりな情熱あるいは不吉な親和性についてではなく、もっと幸福な海の呪縛について、つねに楽しく、多くの場合に喜ばしく、ときにはまるで、ほかならぬわたしたちの心のなかで青い波が白い波頭を立てるとき、あるいは緑色のうねりが翡翠の塔のように崩れて沸きかえるときの、ぴりりと塩からいしぶきのごとき歓喜をも感じさせる呪縛について記そうと思う。しかし、まずは先ほども触れた古い伝説をいまいちど思い出しておこう。ひょっとすると、この伝説を多くの岸に共通する漂着物の寄せ集めと見、われわれの最も古い物語の数々が神秘のうちに生じたアジアの内陸にまで痕跡を辿る民俗学者もいるかもしれない。しかしほかのどこでも活字になっているのを見たとことはないし、言及されているのを読んだり聞いたりしたこともなく、ただ素朴なゲールの民の口にする荒削りな表現として聞くのみだが、それでさえももう長年のあいだ絶えてない。かつて四つの都があり(西のゲールの民の多くは、ゴリアスとファリアス、フィニアスとムリアスという名で呼ぶ)、古き美の一族、すなわち天使と地上の娘たちのあいだに生まれた子孫の都のなかでも、もっとも栄え、もっとも美しい都であった。金髪の女たちは美しかったが、花のように生き、花のようにしおれて無に帰した、というのも、彼女らは陽光の踊る葡萄酒を満たした象牙の杯のように幸福に満たされていたが、魂を持たなかったからである。悲しみ多き美しき者、イヴはまだ生まれていなかった。アダムはまだエデンの塵より目覚めさせられていなかった。フィニアスは南に面したエデンの門であり、ムリアスは西、北にはファリアスが大いなるひとつ星を戴いていた。東には宝石の都ゴリアスがあり、日の出のように輝いていた。その地で天の不死の民はリリスの子らを愛でた。アダムが聖なる御名を口にして世界の王となった日、東のゴリアスと南のフィニアスに、西のムリアスと北のファリアスに、おおきな溜息が聞こえた。朝が訪れたとき、天の恋人が翼をはばたいて日の出に飛翔しても、女たちは目を覚まさなかった。天使たちの訪れは熄んだ。そしてアダムのかたわらでイヴが目覚め、アダムがイヴを見つめ、死すべき美しき者の目の中に不滅の神秘を見てとったとき、海ぎわのムリアスと峰に高きゴリアスに、ファリアスの秘密の園に、大平原のフィニアスの塔の上、槍のごとき月光がさすところに、嘆きと告別と黄昏の声が響いた。リリスの子らは舞い上がる塵のように、露のように、影のように、二度と返らぬ落ち葉のように、風に乗って消え去った。アダムは立ち上がり、四つの廃市に行って世界の四つの古い神秘を持ち帰るようイヴに命じた。そこでイヴはゴリアスに行ったが、ただひとところに炎が燃えているだけだった。イヴは炎を取って心臓に隠した。正午にフィニアスに着き、ただひとすじの白い光の槍を見いだした。イヴは槍を取って頭脳に隠した。日暮れにファリアスに着き、ただ闇に光るひとつ星を見た。イヴは闇と、そして闇とともに星を子宮に隠した。月の昇るころ、大洋の浜辺にあるムリアスに着いた。そこで見たのはたださまよう光だけだった。イヴはかがんで海の波をすくい、血の中に隠した。アダムのところに戻ると、イヴはゴリアスで見つけた炎とフィニアスで見つけた光の槍をアダムにわたした。「ファリアスでは、あなたにあげられないものを見つけたけれど、わたしが隠した闇はあなたの闇になり、星はあなたの星になるでしょう」「海ぎわのムリアスでは何を見つけた?」「何も」イヴは答えたが、アダムには嘘だとわかった。「さまよう光を見たわ」アダムは溜息をつき、信用した。イヴは海の波を血の中に隠しつづけた。それゆえにあまたの女が波のように家なき身の上となり、海のように塩辛いさだめを受け継ぎ、その息子ら娘らの中のいくたりかは例の無益な冷たい火、鎮めがたい苦悩、そしてあてどない水の焦燥に憑かれた。こうして時の終りまで、血の中に海の塩、心臓には乱れる波を宿し、家を持たない人々が存在しつづける。

 しかしこういった考え、こういった伝説は黄昏どきのもの、あるいは島々や僻地に住む無口な人々のものだ。私たちの多く、つまり淋しい浜辺に住まず、穏やかな季節にしかまず海を目にしない者にとっては、海は喜びであるか憂鬱であるかのどちらかだ。ある者は、他の人々が地平線から地平線まで広がる茫漠とした荒地や、峻厳な緑の森や、山あいの静寂が住みついた谷地では心おだやかではいられないのにもまして、海を愛さず、海のそばでは心楽しまずやすらげない。いっぽう、海を愛する者にとっては、なんたる喜び! 〈海〉……言葉そのものに魔法がある。それは森に響く角笛の音のような、夕闇に聴く喇叭の音のような、長いしじまの砦を越える風の声のようなものだ。私たちの多くにとって、これにまさる呼び声、これほど高らかに喜びを告げる声はない。

 しかし海について語るとなると、夏か冬、春か秋について語らねばならぬかのようだ。海には多くの面がある。ここの海はかなたの海とは違い、かなたの海はまたはるかに遠くの海とも違う。ここでさえ、八月の海と、鋼青の筋を引く三月の風が解き放たれるときの海は違う。一月の灰緑の凪と九月の灰紫の凪は異なるし、霧の中にゆらめいている黒ずんだ水平線に長々と身を延べる十一月と、青と白に波立つ輝かしい海原を楽しげにゆく、紺碧の衣に巻雲の冠を戴く五月は別物だ。風に泡立つ青い海はいつでも喜びの挨拶であった。アイスキュロスが鳴らした歓喜の調べはその後の詩歌や物語にも響いている。かの「無数の笑い」が掻き鳴らした音響は、時によって鈍らされることも減じられることもなかった。それはとくに北方の詩歌においては喜びの極みの声であった。スカンディナヴィアの詩歌は塩からい海水に満ちている。うねる海のしぶきに濡れていないヴィーキングのサガはひとつとしてない。素朴なゲールの物語や歌はすべて、走る波の青い葡萄酒による酩酊を感じさせる。アイスランドのサガでは、その響きは盾のぶつかる音に似ている。それはオシアンの歌をとおして潮流のように鳴っている。ゲールの流浪の歌はどれも、貝殻の螺旋の奥に宿るその響きを持っている。ゲール最古の詩人は海の呼びかけに狂喜し、聖なる声の詠唱の前に頭を垂れた。狂気に陥ったクーフーリンはアイルランドの浜辺で寄せ返す波と戦い、喜びに憑かれた仲間として波と切り結び、波の笑い声に笑い返した。スカイ島では、コルイスクの黒い波に向かって抜き身の剣を手に迫り、皆殺しにしてやるから堂々たる戦列を組んで打ち掛かって来いと、神秘を知る海の戦士たちに呼びかけた。シグルドとブリュンヒルド、グンヒルドとオラーフ、トーキルとスワランとハーコン、これらは波の名前のように聞こえないだろうか? 古き世は大いなる緑の海の原野に、水泡散る青い草原に、風の叫びと波の歌と飛び散るしぶきの鋭いひと刺しに、どれほど歓喜したことだろう。それは今日でも変わらない。わたしたちは歳月の無数の変化に変わり果てたが、わたしたちの多くは昔の世のひとたちと同様に歓喜する。昔も今も、島の詩人たちは……わたしたちおのおのの心に住み、海の栄光と美を愛し、多少なりとも海の強力な呪縛を感じる詩人は……あの高らかな楽音に応える。つぎの〈エウホイ〉で、そのような詩人たちのうち最近のひとり(訳註1)が歌ったように――

  海の方へ、海馬たちは威風堂々と進みゆく、歯を鳴らし緑の横腹に白い泡を渦巻かせ、日の照らす虹の黄金のたてがみを高く振りたて、目も眩むほど白く数かぎりなく、目路のかぎり遠く
  おお、歯を鳴らすわが魂の馬たちよ、日の照らすたてがみを、虹の黄金のたてがみを、高く振りたて、振りたてよ、目も眩むほど白く数かぎりなく、なぜならわれもまた喜び、喜ぶのだから

 さらに誰が忘れるだろう、現代の偉大なるイギリス詩人にして

空と、浜と、雲と、荒野と、海と

のすぐれた歌い手(訳註2)、海の呪縛について、波打つ海の揺れとリズムに身を委ねた者の幸福について、きわめて多くきわめて巧みに記している詩人を――

灰色の空はきらめき、灰色の海はひらめく
    淡くやわらかに 夢が喜びであり
  闇と光がいっそうおぼろに見えるように
    暁に彩られ、夜に翳らされ
  黒い風は厳しく気高く悲しげに
  高波を西へ揺り、つややかな
  影の衣で泳ぐ者を誘う
    光の夢をもって誘い惑わす

  光、そして眠り、そして喜び、そして驚き
    うつろい、そしてやすらぎ、そして雲の魅惑が
  天の世界を満たすその下で
    盛り上がり身を震わせ息を喘がす
  一面の水の世界、いまは
  歳老い、けれど身に纏う類いなく鮮烈な栄光は
  稲妻にならび、雷をあざむく
    さらにあざやかな光と、さらに堂々たる音

      ******

  夢、そして夢以上のもの、そして消え去る
    夢よりも暗くかつ輝かしく
  沖の方へ泳ぐ者の刹那の喜びは
    とどまり、真実と同じく記憶される
  喜びのすべてと栄光のすべてが
  森が色褪せるときの葉のように去るさだめにはない
  なぜならかしこになだらかな草地と砂丘がきらめき
    この南には海がうねっているのだから

 この詩人を愛する水泳者なら、〈タラシウス〉のすばらしい海の輝きの詩行を思い出さずにはいられない。

Dense water-walls and clear dusk waterways…The deep divine dark dayshine of the sea—


 水の秘密の美の仕上げをするのがこの透明性という精妙きわまりない奇跡なのである。ほかに私たちが眺めるものはみな不透明だ。日暮れの紫あるいは真昼の紺碧の山々、草地や畑、塊をなす森の緑、群れ咲く花々の美しさ、無数の驚異が全体をなす草、山腹に影を曳く、あるいは碧空の凍てつく高みに昇り、幻か夢の生き物のように影もなく過ぎてゆく雲でさえ――これらの美はみな不透明である。しかし水の美は透明であることだ。想像してほしい、もし草が、木の葉が、薔薇やアイリスやハニーサックルの色淡い喇叭が、大理石の灰色の絶壁と紫の凝った影からなる峨々たる山脈が、水のごとく発光し、水のごとく透明であったなら! もしこれらが海のように、サフラン色の帆をかけ薔薇色に染まる雲の船団が過ぎゆくのを反映し、あるいは凪の海に切れ目ない広大な空が映るように姿を写しとったなら! この神々しい透明性は私たちを幼年から老年まで驚きと喜びの虜にする海の呪縛の一部にすぎないが、その一部こそ海の秘密の喜び、えも言われぬ魅力なのである。

***

訳註1 後の引用はフィオナ・マクラウド自身の作
訳註2 Algernon Charles Swinburne。後の引用は “By the North Sea”、”A Swimmer's Dream” 、”Thalassius”から

THE SEA-SPELL
by Fiona Macleod
館野浩美訳

Image: “The Depths of the Sea” by Edward Burne-Jones