アニメとリアルのはざまの美学、映画大好きポンポさん

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私はずっと、「映画の感想」なるものを極力避けてきた。

理由は2つ。

ひとつは”語彙に不安があるから”。
学も才能も無く、年間のべ100本前後の本数の映画を観る私は、恐らく中途半端な映画ファンだ。そんな自分でも、心動かされる映画を観ると、何か感情の発露をしたくてたまらなくなる。そのたびに「映画の感想」なるものに手を出そうと試みるのだが、語彙が足りないせいでうまく情動を言葉にできない。文字を紡ぐことすら危うい自分に嫌気がさし、結局吐露することそのものを諦めてしまう。

ふたつめは”目的を見失いかねないから”。
先の通り、私は年間のべ100本前後の映画を観る。手段は様々で、劇場に足を運ぶこともあればストリーミングを活用することもあるし、テレビ放送も楽しむしレンタルビデオ店にも足を運ぶ。映画に限らずドラマやアニメに対してもそこまでするのは、私が映像媒体におけるエンターテイメントのファンだからだ。幼少期から漫画やゲームよりドラマや映画やアニメに親しんできたせいなのか、このように成長してしまったのだから仕方ない。今映画を観る最大の目的は、自分が楽しむためだ。映画はエンタメだ。高尚な作品でも、難解な作品でも、観た後に何かしら感じることができればそれでいい。何かを感じたいから観る。カフェインやニコチンが切れると落ち着かなくなるように、私は映画を観ない期間が長くなると落ち着かなくなる。
衝動にまかせて映画を楽しむのであり、感想を言う(書く)ために映画を観るわけではない。昨今はインターネットの発達により誰でも気軽に自身の感想を万人の目に触れさせることができる。ときにバズり、その一部はやがてインフルエンサーへと成長する。もし仮に自分がそうなったとき、もう純粋に、衝動的に映画を楽しむということができなくなると私は思う。自分の性格だ。誰よりも理解している。バズらせるためにキャッチーな言葉を選択し、思ってもいない”””感想”””をツイッターに投稿して報酬を得る。それは感性の死だ。filmarksに投稿した感想のいいねの数に自分の感情を左右されたくない。左右されないでいられるほど私は強くないので、感想を書く、ということそのものを封印した。

前置きが長くなった。

先日、「映画大好きポンポさん」を観た。

わざわざここで粗筋を書くのも芸がないので、割愛する。素晴らしかった。心動かされた。間違いなく、2021年前半期No.1映画だ。

「ポンポさん」を観終わり非常灯が点灯したその瞬間から、「映画の感想」が頭を駆け巡った。これは文字にしなければならない。どんなに拙くても、どんなに貶されてもいい。記録したい。残したい。私が「ポンポさん」に対して抱いた感情の1/10000でもいいから、この興奮を誰かに伝えたい。そう思った。

さて、以上が、このnoteを書くキッカケだ。「映画大好きポンポさん」は、私に魔法をかけたのだ。


90分と女優

「90分以下の分かりやすい作品は砂漠のオアシス」「2時間以上の集中を求めるのは現代娯楽としてやさしくない」

ポンポさんの映画に対する哲学だ。これは悲しいくらい正しいと思う。

私は先日、「ジャスティス・リーグ: ザック・スナイダーカット」を観た。面白かったし、劇場版より断然好きなのだが、長い。とにかく長い。なにせ242分、4時間を超える大作なのだ。どうしようもなくDCEUが好きなファンであれば気にならないのだろうが、私には無理だった。観終わった後、「ここのシーンは冗長だったのではないか」とか、「この演出はこうしたら少し短くなったのではないか」とか考えてしまったのだ。素人なのに。ザック・スナイダーじゃないのに。
ようは集中できてなかったのだ。同じ理由で実は「アバター」も苦手だ。「タイタニック」も苦手だし、「地獄の黙示録」も苦手。「アベンジャーズ/エンドゲーム」は苦にならなかったが、あれは例外だ。10年の積み重ねがあったから楽しめたのであって、いきなりエンドゲームを観せられたら耐えられなかったかもしれない。

時代や国によって多少の変化はあるものの、一方でいわゆる「B級」とか「C級」と言われる映画やインデペンデント映画は90分前後に収まるものがものが多い。例えば「トレマーズ」は96分、「アナコンダ」は89分、「ムカデ人間」に至ってはキッカリ90分だ。低予算ながら多くのファンを獲得でき、世界で親しまれている要因のひとつはその短さに由る部分が大きいと私は思う。なにせ私がそうだから。

だからポンポさんが「長い映画は長い理由が必要」と考えるのには同意するし、信頼できる。というか、原作者の杉谷庄吾氏や監督兼脚本の平尾隆之氏も信頼できる。ようは感性が同じなのだ。90分という美徳。そりゃジーン君も授賞式でつい言っちゃうよ。尺の長さって重要だもん。まあ、「ニュー・シネマ・パラダイス」はそれでも名作だと思うが。


「映画は究極、女優を綺麗に魅せられればそれでいい」

確かこんなセリフだったと思う。一字一句は合ってないかも。

よくわかる。
「スパイダーパニック!」という映画をご存じだろうか。大量の蜘蛛に襲われるという超絶くだらないB級映画なのだが(ほんとうにくだらない。「ハリー・ポッターと秘密の部屋」のアラゴグの巣のシーンや「モンスター・ハンター」のネルスキュラの巣のシーンのほうが何倍も怖い)、18歳のスカーレット・ヨハンソンがとても美しいのだ。アクションシーンあり、露出の多いシーンありでとにかく美しい。若き日のスカヨハをみるために存在する映画と言っても過言ではない。スカーレット・ヨハンソンを美しく撮れているというその一点で、「スパイダーパニック!」は私の脳裏に刻まれ時折思い出す。これが映画にとっては重要なことなのだ。

映画に限らずコンテンツというものは、忘れられること=死だと考える。内容がお粗末でも、なにかひとつ光るものがあれば誰かの心に刺さり、その棘は一生残り続ける。そういった意味でポンポさんの言ったことは正しい。女優を綺麗に魅せる、というのも、コンテンツが生き残る手段であり目的なのだ。


ジーンかナタリーかアランか

本作の主人公ジーン・フィニが映画の世界に飛び込んだ理由は「好きなものは映画しかない」から。映画が好きだから、ではなく、映画しかない、というのはかなり極端だ。このような極端な表現を選んだ理由は決してポンポさんの気を引くために言ったのではなく、世間と乖離し、暗く鬱屈した学生生活の全てを映画に捧げてきたからだ。
程度の差はあれど、ジーンに共感するクリエイターは多いように思う。何かを生み出すときに使うエネルギーは必ずしもプラス方向のものではない。むしろマイナス方向なエネルギーを使う、という創造者は多いのではないか。私も生み出す側の人間だが、いつだって自分の中に抱えているモヤを形にしている。幸福な人間からいいものは生まれない、とまでは言わないが、背中に背負ったものの重さは必ず作品にフィードバックされる。

ナタリーの性格はジーンと大違いだ。明るく、前向きで、表現者としてプラス方向のエネルギーを芝居にぶつけている。表現者もクリエイターだ。表現を創造しているのだから。そんなナタリーも夢を追いニャリウッドに出てきたものの、オーディションには受からずアルバイトに明け暮れる日々。2週間に1回の演技レッスンでは到底足りないとポンポさんに呆れられるが、その才能を認められジーンの初監督作品に抜擢される。彼女もまた、田舎で馬鹿にされた過去と挫折を間近に感じる現在のふたつの重石を肩に乗せていたのだ。
ジーンやマーティンとの映画製作を通じ、彼女は女優として大きく成長する。クリエイターなら経験のある人は多いのではないか。右も左も分からない新人時代、業界の先輩たちや、ともに成長できる仲間と出会って自分の中で何かが萌芽する感覚。レンズを通してジーンが見たナタリーは、まさに背中に背負った過去と現在を受け入れ、前に進んだ姿だったのだ。

さて、ジーンとナタリー。人と違う道を選び、歩みを止めず突き進むふたりを通して我々はクリエイターとしての成功を疑似体験する。私はここがこの作品のキモだと思った。つまり、この疑似体験を実感として受け止められるかられないかで、「映画大好きポンポさん」に対する評価が変わってしまうと思ったのだ。

何かを生み出す作業が好きな人ほどジーンやナタリーに自身を重ねられる。仕組みとしてそうできている。生業にしているかどうかは問題ではなく、好きかどうか。究極、それしか好きじゃない、レベルで好きかどうか。私は何かを創るというのは好きだ。好きだから仕事にしたし、仕事ではなくてもこうして文章を書いている。ここだけの話、絵を描くのも好きだ。とにかく、あふれ出る何かをどうにかして形にして残せないか、常に考えている。なんでもいい。ショートフィルムを撮るのが好きだとか、アマチュア劇団で芝居をしているとか、アニメーター見習いだとか、あるいは木材加工をしているとか建築デザインをしているとか、なんでもいい。なんでもいいから何かを”創る”のが好きな人ほど、刺さるシーンが多いのだ。

問題は、作り手ではなく受け手だ。映画は好きだが映画を作るのは興味がない、とか、発想力が無いので決められた工程をこなすほうが向いている、とか、享受する立場で考えるとジーンやナタリーに移入できないかもしれない。そういう人は客ではない、ではなく、そんな人への救済措置もちゃんと用意されている。映画オリジナルなところが憎い。アランの存在だ。

新人銀行マンのアランは順風満帆な学生生活を送ってきた。ギークやナードと呼ばれるカースト下層の人間とは隔絶された華やかな世界で、「持つもの」として君臨している。しかし社会人になったアランは仕事で失敗をし、上手くリカバリーもできない。アランは夢に向かって止まらずに歩み続けいるかつての同級生、ジーンを激励し、かつてと真逆の立場になった自分を見つめなおす。最終的にはアランが打った一芝居によってジーンの初監督作品「MEISTER」への銀行の出資が決まるわけだが、実はアランは映画製作には何も絡んでない。よくある展開なら、アランとお茶をしたジーンはアランの何気ない一言でインスピレーションが浮かび・・・・・・みたいになりそうなものだが、そうもならない。ジーンはアランと再会した後も自分の世界を崩さず、アランもまた距離感を保ってあくまで資金面で支えるのみとなっている。重役の前で一芝居打ったのもアランの筋書きどおりとはいかず、結局乱入した頭取のおかげで出資が決まる。つまり、アランのエピソードだけ抜き出すと、特にクリエイティビティは存在しない。ジーンやナタリーと違い、享受する側の感情移入先としてアランは存在しているのである。

前述の通り、私はジーンやナタリーに自らを重ね合わせた。私の学生生活はとてもではないが明るいものではなかった。周りに馴染めず、映画やアニメに傾倒する日々。運動部に属していたものの、放課後になると部活をサボって仲の良い教師の元に行き、本を借りたり映画のビデオを借りたりしていた。集団行動というものが苦手で、皆で一様に同じ制服を着ることに抵抗し学校指定のワイシャツではなく柄物のTシャツを着て登校していた時期もある。そんな私だからこそ、ジーンやナタリーに自分の影を見たのだろう。私は、アランになれない人間だったから。


アニメとリアルの境界線

「ポンポさん」を観て私が一番驚いたのは、アニメ表現とリアルさの塩梅の美しさだった。

ポンポさんに代表されるが、登場キャラクターの中には突飛な髪の色(ニャリウッドは日本ではないので、人種が違うのはそうなのだが)も存在し、造形もまた極端に背が小さかったり高かったりする。あんな子供みたいなプロデューサーは存在しないだろう。靴もポキュポキュいってるし。ポンポさん自身、ファンタジーのキャラクターなのだ。

表現もアニメ然としている。撮ったフィルムを90分に収めるため、ジーンが映像をカットしていくシーンは爆音のBGMと共にフィルムの波の間を彼が駆け抜けていく。実写だったらギャグになるところだが、アニメだから許される表現だ。倒れて病院に運ばれたジーンが点滴を引き抜き、編集作業に戻るのもアニメだから嫌味なくできる表現となっている。そしてアランの銀行での一幕。アニメだから許されているものの、会議の風景を盗撮し無断で世界に配信してクラウドファンディングを募るなど冷静に考えれば言語道断だ。半沢直樹でもそこまでやらない。

一方で背景美術、声優の演技、試写室の椅子と椅子の間隔、カット割りと画角の選定、ナタリーによるマーティンとジーンに対する態度の違い等々細かいところが異様にリアルだ。幸運なことに、私は実在する大手配給会社の試写室を知っている。監督やカメラマンが何を考えて撮影に臨んでいるのかもなんとなく知っている。私は原作を知らないので元からこうなのか、映画の「ポンポさん」が特にそうなのかは分からないが、そういったリアルさが、より一層私を「ポンポさん」の世界に引き込んだ。

絶妙なアニメとリアルの混じりあい。これがポンポさんの魅力である。

ちなみにアニメにおけるリアル表現はこちらの記事でも詳しく書かれている。

完全に私の性癖だが、これこそ私は「ポンポさん」に魅了された最大の理由だ。尺が90分ピッタリで超メタ的な構造になってるのもリアルだ。これもいい。

何よりも素晴らしかったのはナタリーの演技だ。演じているのは大谷凜香さん。ナタリーの第一声を聴いた瞬間、ナタリーだった。まさにナタリーを初めて見たポンポさんやジーンと同じ反応だ。はっきり言って声優としての芝居は上手くない。周りが上手いだけに、浮いている。ただ、ジーンの撮る映画「MEISTER」において映画の現場に不慣れなのはナタリーだけなのだ。だから良い。下手でも、それがナタリーを形作っている。絶妙なのはジーン役清水尋也さんとの相性だ。ジーンは映画の現場には慣れているが、監督として参加するのは初。この微妙な立ち位置を、清水さんは上手く演じている。声優初挑戦とのことだが、上手い。いわゆる、「声優初挑戦の俳優の上手さ」なのだ。一方でナタリー役大谷さんは明らかに慣れていない。マーティン役大塚明夫さんとの差は当然ながら、ジーン役清水さんとの差もある。だが、実際にジーンとナタリーでは映画制作の経験に差があるのだ。大きな差が。それが両者の演技に乗って、相乗効果により”リアルさ”を生み出している。

実写でやると見ていられないが、アニメだから許される作品というのは多々ある。例えば新海誠の「君の名は。」、例えばカートゥーン・サルーンの「ブレッドウィナー 」、例えばブラジル映画の「父を探して」。アニメーションとして写実的な描写をする。ファンタジックな表現や、目を覆いたくなるような表現も、アニメだから描ける。「ポンポさん」もまた、この列に並んでいる。


ポンポさんに愛をこめて

ジーンのモデルとなった人物は複数いそうな気がするが、中でも思いつくのはかの有名な映画「ピラニア」を手掛け、スピルバーグ直々の指名で「グレムリン」の監督を務めたジョー・ダンテではないかと思う。B級映画の帝王と呼ばれたロジャー・コーマンの元で編集として修業したジョー・ダンテは才能を認められ、監督として名を馳せる。ジョー・ダンテがジーンのような人物像だったかどうかは定かではない(私はそこまで詳しくない)が、編集者から一流の監督に成り上がる姿はある種「なろう作品」のような爽快さすらあり、ダンテがジーンの一部になったのだとしたらまた作者の映画愛が伺える。

「なろう作品」「王道すぎる」「先の展開が読める」。どこからか聞こえてきそうな言葉だ。確かに「ポンポさん」は王道ストーリーだ。ご丁寧にも、ハリウッドの映画製作におけるメソッド通りに起承転結が存在し、分かりやすく大団円を迎える。いかにも「映画ファン」が嫌いそうな物語だが、むしろ私はそこを気に入った。

王道最高。王道で何が悪い。

王道があるから邪道が許されるんじゃないか。MCUなくして「ザ・ボーイズ」が存在できないように。

映画はエンターテイメントだ。そして、正解もゴールもひとつではない。
物語終盤、「MEISTER」はニャカデミー賞を席巻する。ポンポさんの期待通り。ニャカデミー賞、いわゆるアカデミー賞を受賞する作品を毛嫌いする映画ファンも多いが、私はこれもまたひとつのゴールの形だと思う。例えばケン・ローチ作品のゴールはアカデミー賞ではないと思うが、だからと言ってアカデミー賞に価値がないわけではない。どんな形のゴールでもいいが、誰かのゴールを貶すような真似だけは映画ファンとしてしたくないと思う。
かく言う私も小難しいフランス映画やモノクロのサイレント映画に傾倒した時期はあった。いわゆるハリウッド大作と呼ばれるものを好まず、大手シネコンには足を運ばずミニシアターに通う日々があったことは認める。あの頃の私なら「ポンポさん」を酷評していただろう。

無駄に文章が長くなってしまうのは私の悪い癖だ。この時点で7000字を越えたので、そろそろ筆を置こうと思う。

「映画大好きポンポさん」。好き嫌いが大きく分かれそうな作品だが、私にとってはかけがえのない出会いになった。エンドロールでBTSを流すのもB級っぽくて、最後まで愛に溢れた作品だった。次に書店に足を運ぶ際は、原作コミックを全巻まとめ買いしよう。ソフトが出たら絶対に購入しよう。そしていつか、ジーンの最新作に出会える日を心待ちにしようと思う。


書いた人:FAQちゃん

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