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山口百恵と中森明菜〜ふたりの共通点と違い〜

70・80年代の歌謡曲が好きになった初めの頃、山口百恵と中森明菜の曲が大のお気に入りだった。
二人とも、怒りに任せてカッコよく歌うところが私の好みだったのだ。

その頃「この二人は路線が似ているよな〜」とただ漠然と思っていた。
でも二人の曲を深く聴いていき、調べていくうちに、二人は似ているようで似ていないことに気づいた。
そもそも、どこが似ていて、どこが似ていないのか。今回自分なりに考察した点を綴っていこうと思う。


初期の作風で見る〜異なる部分

二人の初期の作風を比べてみよう。


山口百恵


初期の百恵は『青い果実』から始まった、少女の性の目覚めについて歌うものが主であった。

  • 「あなたが望むなら 私何をされてもいいわ」(青い果実)

  • 「惜しくない あなたが望めば何でも捨てる」(禁じられた遊び)

  • 「あなたに 女の子の一番大切なものをあげるわ」(ひと夏の経験)

と、あげればきりがないので、印象的な曲だけをあげてみた。このように【一人の男性と体で結ばれたいと願う女性、もしくは結ばれている最中の女性の感情を歌った曲】を多く発表する。
それは、心も体も本当の愛で結ばれたい、一人の男性に対してこんなにも一途に想っているという少女の真剣な心の叫びなのだ。
やがて『赤い衝撃』や『イミテイション・ゴールド』のように、体と体が結ばれる描写そのものを歌った曲が多くなっていく。
性を通じての愛の描写は過激になっていくのに、百恵にはなぜか下世話な、いやらしいイメージがつかなかった。
それは、体と体が結ばれることを、単に性欲を満たすための行為ではなく、一貫して男女がお互いの気持ちを確認するための愛に基づく行為と歌っているからだろう。
そのような信念があるからか、百恵には不良っぽいイメージすらほとんどないように見える。
そもそも、『青い果実』の歌詞に「いけない娘だと噂されてもいい」とあるので、不良ではないのかもしれない。


中森明菜


初期の明菜は『少女A』と『1/2の神話』の路線が百恵と似ているように感じる。しかしその内容は、

  • 「私は私よ 関係ないわ」「特別じゃない どこにもいるわ ワ・タ・シ少女A」(少女A)

  • 「それでもまだ 私悪く言うの いい加減にして」(1/2の神話)

  • 「誰も私 わかってくれない」(1/2の神話)

【自分のままで何が悪いのか。誰も自分をわかってくれない、という思春期ならではのイライラ感、反発感】が強く、【不良ツッパリ】のイメージが強いように思う。
 一方で気になるのが、百恵が濃厚に歌ってきた性についてのことだ。
明菜はというと、「早熟なのは仕方ないけど 似たようなこと誰でもしているのよ」とさらっと経験済みと告白している。 
それなのに、「あなたへのこの想い 私に重すぎて 時々泣きたくなるわ」と悩んでいる。
 明菜にとっては、百恵のように体が結ばれること≠本当の愛ではなく、体は結ばれても、心は淋しいままなのだ。体で愛を確認しあったってそれは一過性のものでしかない。本当の愛がほしい。愛そのものに飢えている少女の心からの悲痛な想いを感じ取れる。


まとめ【二人の違い】


百恵…性の目覚めを通して、一人の男性への一途な想いを歌っているのに対し、
明菜…大人や男性を含めた世の中への苛立ち、自分をわかってくれない想いを歌っている。

控えめでいい子ちゃんだけれど、心では好きな人と体で結ばれたいと大胆に想う少女。
不良で好きな人とも経験済みだが、心は誰にも満たされず淋しい少女。
2人の違う少女像が見えてくる。
これには70年代と80年代という時代の違いもあるだろうが、初期の作風を比較してみると百恵と明菜は実は似ていない。
なのになぜ、似ていると感じるのだろうか?



キレるという共通点


二人の共通点、それは、その後二人とも【男性へ向かってキレる女性】を歌っていることだろう。


キレる百恵


百恵に転機が訪れたのは、歌手デビュー5年目の時期。
『赤い絆(レッド・センセーション)』で別れた男性に「許せない あなたは手のひら返すのね」と歌い、徐々にキレる路線に移行しつつあった。

その6ヶ月後の曲で、とうとう本格的にキレる。それが百恵の代表曲ともなった『プレイバックpart2』だ。
ここで、百恵は男に「バカにしないでよ」とブチギレたのである。
それまで感情をなかなか見せないミステリアスな百恵にもどかしさを感じていた民衆に、【あの百恵ちゃんが感情を見せた!しかもカッコイイ!】と思わせた。
「女はいつも 待ってるなんて」百恵は主人公に憑依し、男に捨て台詞を放つ表現力で支持を得、この曲で大輪の花を咲かせた。アイドル、いやスターの頂点に立ったのだ。

この曲の歌詞では「気分次第で 抱くだけ抱いて」とあるので、百恵にとって性のことはもう既に重要ではない。
「坊や 一体何を教わってきたの」と描かれているところからも、思春期を終えて大人になったことがわかる。

百恵はその後、『絶体絶命』で二股をかけた男性に「やってられないわ」と呆れ返り、『愛の嵐』で「心の貧しい女だわ 私」と静かに嫉妬の気持ちに狂い、感情面を重視する歌を歌っていくことになる。
徐々に感情に気づき、【キレる女性】へとシフトしていった。


キレる明菜


一方の明菜だが、元々上記で挙げた『少女A』『1/2の神話』でキレる気持ちを重視して歌ってきた。しかし、そのころはまだ思春期だった。

そんな明菜の【キレる女性】が炸裂したのが、歌手デビューから3年目に発表した『十戒(1984)』である。
出だしの「愚図ね カッコつけてるだけで」で既に怒り散らかしているが、サビになるとその怒りは頂点に達し「限界なんだわ坊や イライラするわ」とブチギレている。
『プレイバックpart2』の百恵と一緒で【坊や】と歌っているという共通点もある。このことから、『十戒』の明菜と『プレイバックpart2』の百恵は、思春期を過ぎてある程度大人になった女性とわかり、ここで明菜は百恵の路線を踏襲したと見える。
この曲で明菜は『少女A』から歩んできた、不良ツッパリ路線の集大成を見せ、FNS歌謡祭をはじめ数々の賞を受賞した。

続く『飾りじゃないのよ涙は』でも、泣いたことのない気持ちを抑圧するばかりだった女性が、「好きだと言ってるじゃない」と気持ちを抑えきれずにキレる様を歌ってみせた。


まとめ【キレるという共通点】

思春期ではまったく描写が違うふたりだったが、成長して怒りという感情をもつのは共通していたのだ。
百恵と明菜は【キレる】という表現を通して、「自分はこうなんだ!」という抑圧されていた自己の感情を押し出したことが、世の様々な人々から好感を得たのではないだろうか。
その一方で、まだ男性をたてる女性が多い中で、女性も怒りという感情をもつ、一人の人間なんだということを2人は教えてくれたように思う。


百恵が表現することのなかった悲しみを歌った明菜

ちなみに、百恵は引退発表の直前に発表した『謝肉祭』で「タロット占い 別離(わかれ)のカード」「恋に疲れたらどうなるの 一人ぼっちで果てるだけ」と、別れの虚しさ、悲しさについても歌っている。

百恵はこの曲を発表した直後にめでたく結婚となり、そのイメージと真逆になってしまうためか、男女の別離の悲しさを描いた作品はこれきりとなった。
しかし、これは後に『SAND BEIGE』、『難破船』等、別れの深い悲しみを歌うようになった明菜に通ずるものがある。
明菜はやがてこれら数々の曲の中で、百恵が表現することがなかった【深い悲しさ】の世界を歌うようになる。
そういう意味でも、この二人は似ているようで似ていない二人なのかもしれない。


あとがき

最初は一人の人と結ばれたいだけだったが、やがて怒りの感情に気づき、悲しみにも気づき始めていた百恵と、
最初は怒りにまかせていたが、やがて悲しみという新たな感情について深く考えるようになった明菜。

怒りや悲しみといった負の感情は、いつの世もどんなときも人にあるもの。
怒りも悲しみももっと感じていい──
後世に残された曲を通して、そう2人の歌姫はいつも私達に教えてくれているように思えるのだ。

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