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Revenant Doll 第23話

第3部

5 鏡

 
 またこの夢か……。
 
 白煙の中をさまよいながら、それが間違いなく夢であることを、意識の底でおぼろげに自覚していた。またこの夢……。この数カ月間、不定期に繰り返し見てきた。心身が疲れ切って眠りに入ると、白煙が上がり、鼻をつんと刺す匂いに包まれて「ああ、まただ」と思う。
 
 振り返りたくないのに、抗いがたい力に動かされて振り返ってしまうのも、いつもと同じだ。すると、決まって森のひときわ高い梢に火柱の立ち上る様子が、薄れた煙を透かして一瞬垣間見える。そしてたちどころに視界は閉ざされ、あたりは再び白一色になる。
 俺がさまよい歩いているのは、森を抜けたすぐ先の平坦な土地だ。間近で木が燃えているわけではなくとも、煙に混じって火の粉や灰が、追いすがるように身辺に漂ってくる。
 火勢に追い立てられて焦りは募るのに、足は鉄の塊のように重い。そんな両足を引きずって俺はあてもなく歩いている。枯葉に覆われた地面に引っ掻き傷のような痕跡を残しながら。
 顔を上げて空を見る。煙を透かして見る空は厚く雲に覆われている。午前であるにせよ午後であるにせよ、太陽は厚い雲に遮られた先のどこかに上っている。ただ、その位置は見当もつかない。
 
 ふと思い出す。俺は誰かを探していたはずだった。この世界で一番大切な誰かを。
 
 その人をどうしたか、よく覚えていない。しかし頭に重く残るこの後ろめたさは、何の名残なのか。
 大切なその人を見つけたのに、救おうとせず見殺しにした。そんな、記憶とも呼べない、やましい気分の残り香のようなものが頭に張り付いている。ならばなぜ、救わなかったのか。
 閃光のように脳裏を走った劇痛はたちまち混沌の中へ溶け入ってしまう。そして鈍く残る後悔だけが、前へ進むことを俺の足に命じる。


 突如、真夏の海へ場面は切り替わった。これは初めて見る光景だった。
 行楽客が波間に浮かぶ海水浴場で、俺は臍のあたりまで潮に浸かり、沖の方へ顔を向けている。時折、腰から下を波にさらわれてよろけそうになるたびに、砂に混じった貝殻の破片を足裏に感じる。
 照り付ける太陽の下、水平線とちぎれた綿雲のカケラを背にして、沖で誰かが手を振っている。目を凝らすとそれは財部豪介だった。満面の笑顔を俺に向け、上半身を浮き沈みさせながら右腕を振って「こっちへ来い」と手招きしている。
 そのあまりにも無心で屈託のない笑顔は、俺が尻込みするほどだ。何がそんなに楽しいのか。別にうらやましいとは思わなかったし、むしろ気味が悪かった。悪いが俺はそっちには行けない。お前が楽しいのなら、その幸福はお前のものだ。俺は邪魔をしない。

 いつしか俺と財部は入れ替わっていた。それまでの財部と同じように、俺は波打ち際に向かって力の限り手を振っていた。こっちへおいで、お前たち。浅瀬で不思議そうに眺める財部、江上、水際らに向かって、腕がちぎれんばかりに俺は手招きをする。俺は自分が至福に満たされているのを自覚している。自覚しているからこそ、この位置から力を振り絞って、彼や彼女を招き寄せるのだ。
 脊髄を貫いて走るこの多幸感、全身の毛穴という毛穴から噴き出さんばかりのよろこびが何に由来するのか、俺は知らない。そんなことはどうでもいい。とにかく浅瀬にたたずむ人々は、このよろこびを俺と共有しなければならない。あの人たちはそこ・・にいるよりも、ここ・・に来るべきなのだ。なぜ、そうしなければならないか? 俺が彼らを愛しているからだ。太陽に微笑みかける花のように。
 俺はそういう存在となった。長い長い苦悩の日々を経て、遂にそのような存在になり得たことへの感謝とよろこびをこの右腕に込め、俺はお前たちをここへ招き寄せる。
 こっちへおいで、お前たち。
 
 いつしか俺は人間ではなくなっていた。全身真っ黒の巨大な烏賊イカに変身して海面に浮かび、波打ち際へ向かって一本の長大な触腕を振り回していたのは、なおも人々を沖へ招き寄せようとしていたのか。友人たちに怪物の姿をさらすのを恥じるあまり、いっそ焼かれて灰になってしまえばいいと、俺は頭の中では思っている。なのにこの場を離れることもできず、吸盤の生えた触手を狂ったように振り回し続けるのは、怪物となった自分が至福の絶頂にあるからなのだ。

 もうたくさんだ。やめてくれ。
 
 喉の奥から動物じみたうなり声が上がり、跳ね起きた。耳に聞こえそうなくらいに心拍が高まり、溺れる魚のように口で激しく呼吸している。薄暗がりの先の天井を見てここはどこだと一瞬うろたえ、一、二秒後、宿泊先のビジネスホテルのベッドにいることに思い当たった。波乱万丈な前夜の記憶も甦った。空調を入れっぱなしで寝たのに全身に汗をかいていた。
 ベッドサイドのデジタル時計は午前十時十六分を表示している。ドアの外から廊下に掃除機をかける音が聞こえてきた。室内にエドの気配はなく、彼がここへ連れてきた従者たちもいない。置き去りにされた気分のままのろのろとベッドを離れ、トイレに向かった。
 用を足して裸になり、悪夢の痕跡を頭から一掃するため冷水シャワーを浴びた。土砂降りの雨の中、傘も差さずに立っている気分でしばらく目を閉じる。そして大して冷えたとも思えない頭で今晩の行動予定を考えた。
 桐谷警部補は昨日と同じ場所で儀式を再開するだろうが、俺の方はまだ四階建て校舎の調査を終えていない。彼とは別行動を取ることにしよう。もちろん彼が期待しているように、強いて藤山はつ子との接触を図るつもりもない。
 エドたち三人も二手に分かれた方がいいかもしれない。エドは俺に同行し、メアリーとハッサンは儀式場で警部補をガードする。それで行こう。

 シャワーを止め、鏡に映る自分の姿を眺めた。運動部に入ったことのない体格はもともと貧弱だが、財部に指摘された通り、確かに最近は肉が落ちたような気がする。食欲も減退気味だ。好ましくない兆候なのは明らかだが、これといって決め手になる処方箋もない。
 霊能者の間に根強く残る「我が身を削ってナンボ」というような旧弊きゅうへいに俺も殉じようとしているのか。それも悪くないと思いながら。
 
 日が暮れて嬉野小に入る前、親父の携帯に電話をした。まだ会社にいる時間だったがむしょうに話がしたかった。二回のコールで親父は電話に出た。
 
「はい。ちょっと待ってな」
 
 オフィス特有のさざ波のようなノイズが、ボリュームを絞るように遠ざかる。会話を聞かれないように別の場所へ移動しているらしい。
 
「どうした?」
「急に変なことを聞くけど、いいかな」
「何だ」
「霊にだって人権はあるよな?」
 
 わずかな沈黙を挟んで、親父は「あるわけないだろう」と答えた。
 
「厄介な状況ならさっさと見切りをつけて帰って来なさい」
「そのつもりだけど、どこで区切りをつければいいかが難しくて」
「『難しい』と思ったところで終わりにするんだな」
「分かったよ。でも、今晩の儀式は約束だから外せない」
 
 親父は「仕方ないな」と舌打ちし、今後ともエドの指示に従うよう念押しした。
 
「お前が心配だ。無茶をしないようにと何度も言ってるが、分かってるのか」
「分かってても引っ込みがつかない。そういうことってあるだろ? それからさっきの話だけど、俺は霊にも人権はあると思ってる。そのことを言いたかった。じゃあ、仕事中にごめん。おやすみなさい」
 
 電話を切る間際、「おい!」という声が聞こえたような気がする。空耳だったのかもしれない。
 
 続いて水際佳恵の携帯へ。できれば出ないでくれと思っていたが、残念なことに彼女はすんなり電話を取った。あいさつもそこそこにして「お前と結婚したい」と告げると笑い声が炸裂した。酒でも飲んだのかと問われ、真剣な口調で俺は本気だと答えると、「分かりました。慎重に検討します」とまんざらでもないような声が返ってきた。
 
「いやーびっくりした。もういいかな?」
「いいよ」
 
 会話はそこまで。生徒会長様、失礼な戯れをどうかお許しください。「もういいかな?」というお言葉を賜ったあなたと、結婚できるなどとは夢にも思っておりません。
 
 財部にもかけてみたが、留守番電話になっていた。時刻は既に八時を回っている。携帯をマナーモードにすると、いろいろな心残りも意外にすんなり断ち切れた気がした。
 
 


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