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Revenant Doll 第25話

第3部

7 音楽室/悪龍


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 ピアノの音が聞こえる。

 俺は床の上に横たわっていて、目の先には細かい穴が左右均等にびっしり並んだ天井があった。横臥したまま視線を横に転じると、教壇側の壁の上部に沿って肖像画が並んでいる。全員が白人の男だった。かつらを被っているとしか思えない髪型の者もいる。
 ここは音楽室だ。肖像画の人々はクラシックの偉大な音楽家たちで、小学校低学年の時、彼らの一人が八方睨みの画法で描かれていたことから、室内のどこにいても追いかけてくるその視線に俺は怯えながらも面白がっていた。俺にとって音楽室とは、まず第一にそういう場所だった。

 ピアノの演奏は続いている。俺もメロディーを知っているドビュッシーの「月の光」。
 床に肘をついて上半身を起こした。並べられた学習机に児童の姿はない。肖像画の下の古めかしい黒板には、白のチョークでト音記号とフラットが五つ記された五線譜が四段並んでいる。ただし音符は書かれていない。その空白は「見える者にだけ見える」と暗示しているかのようだ。
 気だるさを振り切って立ち上がると、左側に置かれたグランドピアノを演奏する女性の姿が見えた。

 白いブラウスに黒のスカートを身に着け、背の中ほどまで届く髪を無造作に束ねている。演奏に没入して目を閉じているその顔が、フォルテシモに合わせて上を向いた。

 藤山はつ子は、その場に立ち尽くす俺から別世界に隔たっている様子で、無心に「月の光」を弾き続けている。曲はやがて主題部へ戻り、光の粒さながらに音符を撒き散らして終わった。はつ子の顔がゆっくり動き、目が開かれて、潤んだ瞳が俺に向けられる。何をすればいいかやっと気付いた俺は、慌てて拍手した。

「こっちさ

 はつ子が微笑んで腰を浮かし、ピアノスツールにもう一人座れるだけのスペースを空け、そこに右手を置く。俺は学習机の間を縫って蹌踉と歩み寄った。

「どこでピアノを習ったんですか」

 愚かな問いだった。藤山はつ子がその生涯のうちにピアノという楽器を見たことがあろうとあるまいと、彼女は音楽が好きなのだ。はつ子はそんな愚かさも黙って受け止め、横に座った俺に笑顔を向けている。

 「弾いてみっしゃ。わぁが弾いだみでぇによぅ」

 俺はピアノなど弾いたこともない。まごついている俺の両肩を、横からはつ子の手のひらが優しく包むと、俺の指は鍵盤の上でひとりでに動き出した。
 俺は「月の光」を演奏していた。正確に言えば、させられていた・・・・・・・。非業の死を遂げた酌婦の霊に支配され、道具になりきって奏でる楽しさに俺は時を忘れた。

 最後の一音を終えた後、温かい手のひらが俺の両肩から離れていった。心もとない思いに駆られて横を向くと、はつ子はそこにいて、穏やかな微笑を投げかけている。

 「自分でやってごらん」──。そう促されていると気付いて、俺は再び鍵盤の上に指を置く。 
 氷の上を滑るように、俺の指は鍵盤上を舞った。楽器は俺の血肉になり、俺の血肉は楽器の一部になった。音程もディグリーもすべて自分の中にしっかりと根付き、融和して、自分がピアノ奏者であることは何ら不思議のない事実となった。呼吸をするように、誰かを愛するように、俺は奏でている。そして俺は奏でられている。楽器とはつ子によって。この至福は永遠に続くのだ。終わりが訪れることなどあり得ない。

 指先を伝って、多くの者たちが俺の中へ入ってくる。どの顔も皆、懐かしく思い出深い。初めて会う人などいない。きっとそうなのだ、「誰だったろう?」という戸惑いは一時いっときのうちに過ぎて、そのうち必ず思い出す。ほんの束の間忘れてしまうことぐらいは誰にでもある。

 突如、はつ子の体から炎が上がった。火炎はたちまちはつ子の全身を包み、彼女の顔から微笑が消えて当惑と悲しみが広がっていく。問責するように目を大きく見開き、その場に凍り付く俺を凝視している。

 はつ子の口が微かに動き、なすてなぜ、と言った。既に音楽はこの場から死に絶え、噴き上がる炎の音だけが支配している。喝采の記憶も消え失せた。彼女の姿が崩れ落ちようとした時、その口が音にならない問いを俺に投げた。

 何すんだよう・・・・・・……

 音楽室は火の海と化した。ピアノも、音楽家たちの肖像も、すべて灰燼に帰すまで燃え続けるのだ。


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