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今際の際で見てきたこと

息子が中学生になり、赤ちゃんだった日々が遥か遠くへ行ってしまったなと、懐かしく思うことがある。

そのせいか、近頃は赤ちゃんを見かけると未知の生き物みたいに感じる。

謎だらけで、ピカピカ光っていて、体がぐにゃぐにゃと柔らかい姿は、人間の形はしているものの、神様とか精霊の仲間に見える。

生と死は表裏一体だから、赤ちゃんとお年寄りは天国に近い存在だと聞く。

私はコロナ関連のニュースを見るたびにあの時のことを思い出している。

もうダメかもしれないと感じた時の感覚は「この体に留まっていられない」「ああどうしよう旅立ってしまう」という、まるで身支度とか準備が整ってないのに出発させられるような焦りだった。

その時あったのは恐怖というより「申し訳なさ」で、猫が死に際を飼い主に見せたくない気持ちが少しだけわかった。

こんな姿を発見させるなんて、いやー申し訳ない、という感情は、今際の際に来ないとわからないものだった。

そして自分の体感としては、この肉体を「これ以上人間の形に留めておけない」という感覚だったのだ。

例えば毎日世界ではたくさんの人が旅立っているけれど、魂が抜けた後もみんな肉体はその時の姿のまま、冷たく固まっていくはずだ。

だけど魂が抜ける側からすると、体を構成していたすべてのパーツが留めておけずバラバラになってしまう感じなのである。

例えば操り人形って誰かが上から支えて操るから踊ったり首を傾げたりできるわけで、もしもその手をパッと離したら、途端にポーズや体を維持できず崩れ落ちてしまう。そんな感じだ。

生きとし生けるものの肉体には、すべて命が「吹き込まれている」

肉体は魂が入ることで動く「容れ物」なのだと改めて知ることができた。

だから体がぐにゃぐにゃで自分で立てない赤ちゃんは、やっぱりとても神様に近い世界にいるのではないかと思う。

その容れ物に注がれるたくさんの愛情を栄養にして、徐々にこの世界に根を下ろしていけるのだろう。

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ちなみに今際の際での夫とのやりとりは今思い出すとギャグ漫画のようだ。

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私「ごめん、私もう無理かも、もう旅立っちゃうみたい」

夫「えー。だあいじょうぶだって〜」

私「いやこれ本当に本当なんだけど」

夫「はいはい、わかったわかった」

私「どうしよう、これもういよいよのやつなんだけど」

夫「はいはい、困った困った」

私「ほんとごめんね。もうだめだ」

夫「え〜〜?そんなことないってぇ〜」


夫・心の声(死ぬ気は全然しないけど万が一そうなったら「あの時自分でそう言ってたな」って思うの嫌だしな...)

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治療でもしてやるか〜

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というわけでその時してもらった治療で私は一命を取り留めたようだ。

感謝してもしきれないが、あの時の押し問答は小学生の頃やたら心に残った物語のやりとりにそっくりだと思った。

題名は忘れてしまったが国語の教科書に載っていた物語で、主人公の男の子が外で山姥だか魔物に襲われそうになり、家の中にいるばあさまに助けを求めるのだが、そのばあさんがなかなかドアを開けてくれないのだ。

男の子が必死に訴えても

「まんずまんず、帯締めて」

とマイペースに身なりを整えるのである。身の危険は刻一刻と迫っているのに全く伝わらず「まんずまんず〜」と一向にドアを開けてくれない。

最後は助けてもらえるのだが、とてもハラハラしたのを覚えている。

それから給食の時間になぜか流れたオペラ「魔王」の日本語版。これも幼い私の中に刻まれたものだ。

「魔王」はご存知の方も多いと思うが、馬に乗って夜の森を駆け抜けていく父子の物語を歌ったもので、後ろに乗っている子供が「お父さん魔王がいるよ!」と言ってるのに父親は「気のせいさ」と取り合ってくれないやりとりが続く。

親子の会話は後半へ進むごとに激しくなっていくオペラなので「おっとぉーさん おとーーさん、魔王が今ーーー!」と声量もビブラートも全開になるにつれて私はちょっと怖かった。

ドアを開けてくれないばあさんといい、まともに取り合ってくれない父親といい、なぜか心に残った二つの物語が

まさか30年以上の時を経て、生死を分ける分岐点で伏線回収しに来るなんて思ってもみなかった。人生は壮大すぎる。

そして助かってから感じているのは、この世界はすべてエンターテイメントなのだということ。

座るのも歩くのもその動作そのものが楽しいし、日常にあるなんでもないことをしていても、なんだかすごくやりがいのあることをしている気がするのだ。

こぼした水を拭くとか、箸を引き出しにしまうことでさえ、どれだけ楽しいことなのか伝わらないことはわかっている。

だけど赤ちゃんの目があんなにキラキラしているのは、つまりそういうことなのだ。

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