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End and Play〜死神の優しさ〜

先月、庭のパンジーやビオラを「切り戻し」した。

春になり背が高く伸びきったビオラ達は、このままでは地面に倒れてしまうからだ。

私はすべての花を刈り取った。

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花たちはいくつものビンに分けて、家のあちこちに生けた。

庭は少し寂しくなったけど、家の中が華やかになったのでよしとした。

さて、星の流れや地球の流れ、様々なシフトの中で今「終わらせる」流れが来ているように感じる。

価値があると思って費やしてきた時間、感情、エネルギー、お金、体。

「そうしなければいけない」と思っていたもの、感情を無視して続けていたものは勿論のこと、大切に抱えて温めてきたものですら、人によっては「終わらせる」時を迎えている。

Death(死神)のカードは「骸骨」や「鎌」など、少しダークなモチーフで描かれることが多いので怖い印象を抱く人も多い。

だけどDeath(死神)の本質とは「軌道修正」であり、本来自分が正しく輝ける道を案内してくれる存在だ。

その軌道修正は、個人の意思が及ばない半ば「強制終了」のスタイルではあるけれど、あくまでも「再生」へと進むための道なのである。

私はその強引さに、四季の変化と同じものを感じる。

春が好きだからと言って、春にしがみつくことなんてできない。いくら春を愛していても、無常のグラデーションで世界は夏へと向かっていく。

それも言わば春の「強制終了」ではあるけど、それこそが「自然」の姿だ。

春が終わるのは死神のせいではないし、誰かの落ち度でもない。

春が終わらないと、来年の春を受け入れることもできない。

今、この時期に何かを「強制終了」されることがあっても、それは「自然」なことであり、あなたには何の落ち度もないのである。

「あなたの実力不足や落ち度ではない」と思わせるために、死神は犯人役を買って出て、悪役のような姿で登場してくれるのかもしれない。

何かを終わらせる時は寂しいし苦悩が伴うかもしれないけど、その鎌でバッサリ切ってもらわないと、あなたもビオラのように地面に倒れてしまう道しかなかったのではないだろうか。

花の「切り戻し」とは、まさにDeath(死神)のような言葉だと思う。

庭のビオラを切り戻ししてから明後日で1ヶ月になるのだが、ビオラ達は再び少しずつ咲き始めている。

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自然とは、終了と再生のことだ。

終わらせるから始めることができる。

そんなことを繰り返しながら太古から私たちは生きている。



おまけ

今日の絵は2005年にイベントのフライヤー用に描いたもの。「死神」っぽいものがこのくらいしかなかったのです。時間が経つのは早いね!

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