ある八百屋の話 ~努力は裏切る~

ところで、先の八百屋さんの「努力」は適切なのだろうか。

私はよく思うことがある。
「努力は裏切らない。」「努力は報われる。」
本当に?
本当に努力は裏切らない?
子どもに嘘を教えてはいけない。

私は、
「努力は裏切るが、無駄にはならない」
と捉えている。

努力は無駄にならない。努力した時間は、費やした労力は予想だにしない部分でかもしれないが何らかの形で自身の力になる。確かに努力は無駄にはならないが、無駄にならないと裏切らないは同義ではない。

努力は確かに無駄にならない。ただし、自身が望んだ結果が得られるとは限らない。

例えばスポーツで考えてみる。学生時代、そのスポーツで食べていけるようになりたくて努力した。人の倍以上努力してそれなりの成績も残したが、結局プロにはなれなかった。よくある話である。

なぜプロになれなかったのか。怪我かもしれないし、プロになるような選手との才能の差を感じたのかもしれない、身近なところにそのスポーツのプロチームがなかったかもしれないし、運悪く似たタイプの選手が多くいて需要が少なかったのかもしれない。もしかしたら、人より努力の成果が出るのが遅くて注目されないままだったのかもしれない。

理不尽や才能の大小、向き不向き、環境の違い、タイミング、そうしたものは現実にあるからだ。

だからと言って、努力しないことを推奨しているのではない。

努力は報われなかったけど、望んだ未来じゃない方が自分にとってよかったと感じることも多いだろうし、その時には努力したときの気持ち、努力の仕方、努力して得た経験が活きていることだろう。努力は無駄にはならないのだから。

ところで、なぜ努力が報われるという人と報われないという人がいるのか。
これはそもそも「努力」をもっと細かく見る必要があるのではないかと思う。つまり、「努力すれば報われる」という人の「努力」と「努力したって報われない」という人の「努力」がイコールではないのではないか。一言に「努力」と言っても様々な努力の仕方がある。肉体を鍛えるのか、頭を鍛えるのか、精神を鍛えるのか。

つまり努力の方向性ということである。ただ我武者羅に努力するのか、知識を身につけそれを持って効率的に努力するのか、経験者に尋ね学び参考にして努力するのか。自分の目的と方向性の合った努力ができれば、その努力が報われる可能性は上がるのだと思う。

この「努力は報われる」という言葉に違和感を覚えるか否かは時代背景も影響を与えているように思う。戦後、「努力」しなければ生きていけなかった時代。高度経済成長期、「努力」すればその分収入が上がるなど成果に結びつきやすい時代。現在、「努力」して生活を維持する時代、「努力」の方向性やその他の要因が混ざってようやく成果に結びつく時代。どの時代を経験したかにより「努力」という言葉の背景は異なる傾向があるのではないか。

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