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ミラーリング・ヤンキー

先日、佐藤究さんの「Ank: a mirroring ape」を読み終えたのですが、めちゃくちゃ面白かったです。
物語のあらすじは、こんな感じです。

2026年、京都で大暴動が起きる。「京都暴動=キョート・ライオット」だ。人々は自分の目の前にいる人間を殺し合い、未曽有の大惨劇が繰り広げられた。事件の発端になったのは、「鏡=アンク」という名のたった1頭のチンパンジーだった。霊長類研究施設に勤める研究者・鈴木望は、世界に広がらんとする災厄にたった1人で立ち向かった……。

Amazon.co.jpより

その物語の中で「自己鏡像認識」という言葉が出てくるのですが、鏡に映る自分が自分であり自分ではないということを人は無意識に理解していることを、物語ではそう表現していて面白かったです。

人は鏡に映った自分を見ているとき、その像が自分であり、かつ自分でない、と同時に理解しているのです。どちらか一方ではあり得ません。どちらか一方であれば、人は鏡を見ても、それが自分だとわかりません。もしくは、自分が映りこんだ
鏡を、命懸けで守るはめになるでしょう。

佐藤究 Ank: a mirroring apeより

鏡を知覚した自己の認識が、ロシア人形のマトリョーシカのような入れ子となって、脳の中で無限につづいていく。
……鏡……そこに映っているのは自分だ。だが自分ではない。だが自分ではない自分だ。だが自分ではない自分だがじぶんではない……
鏡を見る、というのはこういう経験なのだ。

佐藤究 Ank: a mirroring apeより

鏡を見た時に限らず、思考する時には頭の中が自問自答じゃないですが、そんな感じになるような気がします(僕は、普通と言われる人よりそうなってしまうので、談笑が苦手ですが…)

人類の始祖が、水面に映る自分を「自己鏡像認識」できた事をきっかけに、言葉や文化が生まれたということを物語では書いているのかなと思いました。

急に話が変わってしまうのですが、東京リベンジャーズという毎週テレビで放送してるアニメを見てるくらい、割とヤンキーマンガやアニメ・ドラマが僕は好きなのですが(ツッコミどころ満載なところも)、ヤンキーマンガやアニメを見ていると、既視感というかあるあるみたいな場面がでできます。

その現象が、主人公の仲間が1人になった時、敵対しているヤンキーの集団に襲われるのですが、主人公の仲間のヤンキーがイキって「1人じゃ何もできない奴らが、かかってこいよ!」とケンカを買う形になり、多勢に無勢で必ずボコボコにやられてしまいます。

それを知った主人公と主人公のヤンキー仲間達が、助けにいったり仕返しにいったりします。

それを僕は、「ヤンキーのジレンマ」と呼んでいます。

架空のヤンキーのことなので、現実のヤンキーの人がどうかはわからないのですが、この主人公側のヤンキーの思考は、
オレは1人でもケンカできる→仲間は尊い→オレは1人でもケンカできるけど、仲間は尊いけど、1人でも集団でしかケンカができないような奴らに負けない→オレは1人でもケンカできるけど、仲間は尊いけど、1人でも集団でしかケンカできないような奴らには負けないけど、仲間がやられたりしたら俺達は黙っちゃいないぜ→オレは…
みたいな感じで無意識に永遠と思考を繰り返し、敵のヤンキー集団が鏡映しな状態になってしまうのかなと、そういうシーンが出てくるたびに思ってしまいます。

でも、敵のヤンキー集団にはそういう意志を持たせていないので、鏡映しでもないのかとも思いますが。

自己鏡像認識そのものが[帰還(フィードバック)]的現象であり、[再帰(リカージョン)]的な現象だからだ。
電気回路のフィードバック・ループ。
コンピュータプログラミングのリカージョン。

佐藤究 Ank: a mirroring apeより

何が言いたいのかというと、佐藤究さんの「Ank: a mirroring ape」はめちゃくちゃ面白いので、気になった方は是非読んでみてください。

自分の面が曲がっているのに、鏡を責めて何になる。
鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。

押井守 イノセンスより

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