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「人生あきらめが肝心」って、本当はこういう意味だと思う

最近、愚痴を聞く機会が増えた。新年度になり、みな新たな自分の役割や前任者が残していった負の遺産に悪戦苦闘しながら、「これは自分の本当の居場所じゃない」「前任者はなんでこれをやらなかったんだ」と、温度差に違いはあれど、こんな言葉を口にする人を目にする機会が増えた。

私自身はどうかと言えば、あまり愚痴を言いたくないタイプの人間だ。愚痴を言っても周囲の状況は変化しないから。例え愚痴をこぼしたとしても、そのまま後ろ向きに終わらせるのではなく、前向きなメッセージで終わらせることが大事だ。

それでも、前向きになれないときがある。愚痴を言おうと言うまいと、どれだけ前向きでもうまくいかないことがある。

私は「人生、諦めてからが勝負だ」と思っている。どうやっても自分の思い通りにならない理不尽は起こる。勝敗がつく場面では負けるときもある。

では、うまくいかないから挑戦しないのか。理不尽だからひねくれるのか。負けるから戦わないのか。そんな生き方なら、そもそもそのステージに上がらない方がいい。私はそもそも「周囲がこうだから自分はこうする」という他人軸の考え方があまり好きではない。私自身もそういう行動基準に陥ってしまいそうになる瞬間はあるけれど、我慢している。自分に理不尽を提供してくれる誰かがいたとして、その人がもし自分の前からいなくなったら、自分の行動は変化する。そんなの、理不尽を提供してくれる誰かにコントロールされているのと一緒だ。

世界は自分を映す鏡だ。自分の身に降りかかってくるものは全て、自分の責任で起きている。自分自身を映すようにして表れていたり、今の自分に必要なことだから周囲が自分に与えてくれていたりする。

だったら、腹くくってやりきるしかない。自分にとって負に感じられる出来事も当然起きるものだと諦めて、その要素も引っくるめてどう生きていくか考え続けなければならない。

「嫌なことも捉え方を変えれば良いことだ」なんて薄っぺらい話をしているんじゃない。どう考えても腹立たしくて、良いように捉えられないことも起きる。でも、自分に起きたことは、諦めて飲み込め。出されたものは腹くくって食え。

諦めて受け入れたことによって自分の中にできた引き出しが、いつか自分を救ってくれる日が来るかもしれない。その日は来ないかもしれない。でも、諦めないうちは「自分の人生はこんなはずじゃない」といつまでも自分の人生を受け入れられない。願いや想いが届かない状況を、いつまでも人や環境のせいにして、そうして受け入れられないまま人生が終わる。

諦めて飲み込んで、糧にしろ。その積み重ねが、自分を形成していくのだ。

「人生あきらめが肝心」って、本当はこういう意味だと思う。

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