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地平線の向こう側へ。20011年、311からの旅。その2

福島から栃木に避難、そして数日後、原発が爆発し、北海道に行くことを決めた俺は、妻と娘の3人で新潟からフェリーに乗り小樽港に降り立った。3月中旬の北海道はまだ寒かった。パーカー一枚しか上着を持っていない俺にとっては結構なキツさの気温。つい数日前までいた福島のあたたかさとくらべ、その体感の違いに、日常が非日常になったことを改めて実感した。
小樽からとりあえず5号線にのり札幌に向ったが、途中で給油のためガソリンスタンドに立ち寄った。北海道では給油制限もなく普通にガソリンを満タンに入れることができた。と言うのも、その当時、本州の特に地震の被害が大きい地域では、ガソリンがないと言う理由で給油制限をされ、一台10リッターまでしか給油できないとかで、スタンドには長蛇の列ができていたりした。栃木にいたときもガソリンを入れるのに何時間もならんだ記憶がある。
いま思えば、政府の思惑で原発事故後にみんながなるべく移動できないように、わざとそうしたのではないか、と言う疑いが残る。なるべく人が逃げるのを阻止したかったのか?
チェルノブイリの事故の時、ソビエト政府は原発の地域の人を全員バスで避難させた。日本政府は3.11の原発事故の時、そのあたりをどのように考え、どう言う方策をとったのか。真実は事実をちゃんと観ればわかる。被災地域にガソリンがないと言いながら、海を超えた北海道には普通にガソリンがふんだんにあった。そのほか、日本の南の方もなんら日常と変わらなかったらしいので、原発事故の影響を受ける地域だけガソリンがない、と言うのは変である。他のところからいくらでも運べるし、道路だって損傷はあったが通行出来ない状況ではなかった。俺たちが地震直後に車で避難できたのが証拠である。

それはさておき、札幌市街を南に抜けて定山渓の山の方を通って約3時間半、俺たちはスキーリゾートで有名なニセコ町にたどり着いた。
スキー場があり、国外、特にオーストラリアからのスノーボーダーが多く滞在する比羅夫(ヒラフ)と言うエリアの外れの通り沿いの洒落たカフェに入って一息ついた。
ふと、不思議な感覚に落ち入った。普通なら今頃、天栄村の自分の家でもある歯科医院で患者さんの治療をしているはずなのに、なぜか今、世界的スキーリゾートであるニセコのカフェでコーヒーを飲んでいる。しかも、今からなにをどうするとゆうあても何もない。
いまあるのは、福島の歯医者の金庫から持ってきた数万円の現金とキャシャカード、最低限の着替えと日用品、そして なんの予定も保証もない未来への時間だけだった。
長いドライブで疲れた三人は、その小洒落た雰囲気の木造基調のカフェで、ゆっくり休んだ。食事も美味しそうなメニューがあったが、コーヒーだけにした。そこで、この比羅夫と言うエリアの観光マップを手に入れた。しばらく休んだあと店をでた。そして、比羅夫の街の中心部に向かって ,両脇にまだ寝雪の残る県道を紺のミニクーパーに乗って進んでいった。
そこは中心に大きなスキー場があり、その周りが小さな繁華街と別荘地になっている洒落た雰囲気の地帯でバーや飲食店、スキー、スノーボード用品を扱う店や不動産屋など、いろんな個性的な店もたくさんある、とても雰囲気のいいエリアだった。3月の中旬で雪もまだ残っていて、シーズン最後の滑りを楽しむオーストラリア人を中心とした白人の姿もちらほら見られ、海外にいるような錯覚すら覚えた。
この時の自分。借金がまだ約2000万残る歯科医院を放置、避難して約10日。今現在、仕事も収入もない。これからどうして生きていくかもわからない。考えたら結構やばい状況ではあったのだが、火事場のくそぢから状態で脳内麻薬が出ていたのだろう、意外に平然と状況を観て受け入れて、冷静に行動していたように思う。大変とは思いつつも、どこかこの非日常を楽しんでいるような節もあったのは事実であり、人間と言うのは、いざとなると案外メンタル強いんだなあ、と思ったのもこの時である。
余談であるが、2008年にインドのワンネスユニバーシティに妻が行った。21日間の無言の行とディクシャをうけて帰ってきたら、いつも思考や不安で苦しんでいた妻が嘘のように、こころに羽が生えたように軽くなって帰って来たのをみて、俺もこれは「何かある」と思ってワンネスユニバーシティのディクシャギヴァーになるためのコースに参加した。
その時の話、ヴァガバンとディクシャとの不思議な出会いや体験の話は細かく話せばきりがないのでここではやめておく。しかし、ひとつ言えるのは、当時、ワンネスユニバーシティでいろいろ体験した後だったので、脳の状態がある程度現実に対して俯瞰的になれたのは事実だと思う。

ディクシャについてはいろいろ言いたいことはあるが、体験者として言えるのは、もしディクシャが本物で、右脳を優位にするテクニックで効果があるとしても、それをされたから、はい、次の日から人生パラダイスになるか?と言ったらそれはほとんどの場合ない。ユニバーシティでマインドが一度リセットされて帰ってきた妻も、日常に戻ると徐々にまた思考や感情に苦しめられ、もとのスタート地点に戻った。そこからまたひとつひとつ感情や思考、体験に向き合う中で、少しずつ少しずつ体感して一歩一歩上がっていくと言う感じだ。俺も例外でなく、コースを受けて帰ってきた時はサイケデリックを体験した後みたいに癒されて、苦しみは全くない状態に仕上がっていたのだが、それからの人生にその状態を定着させるのはそうそう簡単ではなかった。実際、初めてディクシャに出会ってから14年たつが、まだまだ俺は至福に至っているとは全然思えない。いまだに、怒る時はマジでカーッときて怒鳴るし、憎らしいってマジで妻に対して思う時はよくあるし、グルグルと不安な思考やイメージに悩まされる時間が結構ある。311以降、ぐちゃぐちゃな生活の中、北海道では苦しみのどん底に落ちた。悔しさ、怒り、憤り、不安感。だけど、なんとか乗り越えて生きてこられたのはカルキバガヴァンとワンネスユニバーシティに出会っていたおかげかもしれない。もちろんディクシャが全てだと思ってもいない。いろんな健康に対する取り組み全てをやった結果がいま、だと思っている。
あの当時、スピ系の人たちもワンネスユニバーシティにたくさん行っていたが、ガチなひとほどなんの体感も得られない傾向にあったのは事実、余計な知識は体験を妨げるみたいだ。一朝一夜にして全てが解決するなんて言う上手い話はないと思う。あるならすぐに教えて欲しい。誰か、瞬間でこの世からこころの苦しみがなくなる方法があれば教えてほしい。その人はきっと救世主だ。
たまに、一回ディクシャを受けて、そのまま、ずっと至福状態になってしまうひともいて、そう言う資質を持つひとが「コズミックビーイング」といって、存在自体が地球の波動の安定に寄与するようなエネルギーをテレパシーを使い瞑想で地球に送る役割をかってでたりするひとたちで、そういった人たちと実際ユニバーシティで瞑想したり、ディクシャしてもらったりしたのを覚えている。百聞は一見に如かず。その人たちが嘘で演技して騙しているようには、少なくとも俺には見えなかった。そういう影ながらエネルギー的に地球を支えている人達がいるんだなあ、すごいなあ、と思う。
最近ぼちぼち世間に知られるようになった、ブレサリアンと呼ばれる不食のひとたちの脳波もコズミックビーイングと同じだとおもう。彼らの存在はいまの地球にとってとても大きいと思う。人の前に出ることもなく世界のどこかで存在として宇宙にグッドバイブスを伝導する彼ら。地球上で16000人が完全に覚醒した時、自動的に地球上の集合意識から苦しみがなくなり、バッドが存在できなくなり、地球上からバッドバイブスが消え去り、地球は苦しみのないゴールデンエイジを迎える、とカルキは言っていた。そして日本人の覚醒が遅れているとも言っていた。
話がだいぶそれてしまった。
さて、比羅夫の中心のスキー場の前のメインスリリートを妻と娘をのせて車を走らせていると、ふと一件のスノーボード用品やウエアを売るショップが目に入った。そして、なぜか引き寄せられるようにその店の駐車場に車を停めた俺。
「ちょっとまってろ」
と言って車をおりてショップに入った。ドアを開けると中はスノーボードやウエアがたくさん置いてあり、奥に中年のオーストラリア人のおばさんがいて英語で話しかけてきた。日本語が苦手みたいなので、おれの下手くそなバックパッカー英語で上着が欲しいと言うと親切にいろいろと説明してくれた。いい感じの黒の防寒ジャケットを選んで買った。そして、俺たちが福島から避難してきたこと、行くあてがないこと、とりあえず滞在するところを探していることを伝えた。
すると、彼女の口から、「オーストラリア人の友達がオーストラリア人向けのアパートやってて、お客さんたちはみんな今回の地震の後国に帰って部屋が空いてると思うから、聞いてあげる」という話がでてきた。
「お金ないから、なるべく安いところを探している」と彼女に伝え車に戻った俺は、二人にことの成り行きを伝えて彼女が交渉してくれているアパートのオーナーの返事を待つことにして、3人で店の中で待つことにした。オージーの彼女はとても親切なやさしいひとで一生懸命電話で友人のアパートオーナーに掛け合ってくれた。そして何分か後に、2LDKのリゾート型のアパートを一週間で2万円でいいよ、ということになったらしい。彼女は俺にその条件を伝えた。俺は二つ返事で
「はい、それでお願いします。借ります。」
と言った。
ホテルに泊まれば一泊3人で最低1万円はするだろう。アパートを借りると言ったって急にその日に借りられるところなど、まずないと思った方がいい。そう考えたら、この話は俺たち一家にとって願ってもない好条件だったのである。運がいい。
数分後、中年の痩せ型で髪の毛が薄くナイスな感じのオージーが店に現れて挨拶をした。店の彼女に丁寧にお礼を言って、俺たち3人は、アパートオーナーの彼の車の後をついて行って、ショップからほど近い別荘地の中にある築10年くらいのアパートに着いた。車から荷物を出してアパートの事務所に入る。そこで書類にいろいろ記入して契約の説明を聞いてから部屋に案内された。一階の3部屋あるうちの一番奥の部屋だった。プッシュ式の暗証番号を入れるタイプの鍵がついていた。中に入ると、8畳ほどのリビングがあり、他に寝室が二つ、ベッドはひとつの寝室に二つ、もうひとつの部屋にひとつあった。おれはベッドが一つの部屋に荷物をおいた。
アパートには洗濯機や乾燥機もついており、調理器具や食器、ソファーなど、生活用品は全て揃っていた。スキーやボードをしに来るオージー向けの物件と言う感じ。普通は日本人には貸さないし、本当は家賃ももっと高いはずだが、オーナーが事情を汲んでくれて、できる限りの値段で貸してくれていると思って、ありがたいなあと思った。そして更にありがたいことに、アパートのすぐ隣りが日帰り入浴のできる温泉だったのだ。
「湯ころ」 と言う源泉掛け流しの高温の濃厚な源泉の宿。ここにはだいぶ世話になった。
しばらく続くニセコでの生活で、先の見えない不安を和らげるのに、この温泉の存在は大きくてありがたかった。
北海道での当面の住む部屋を見つけた俺たち三人。これから始まる、北海道での試練の旅のスタート地点に立った。
しばらくは何も考えず、開き直って、避難で疲れた心と身体を、ここ世界的リゾートであるニセコで遊んで癒そう、そう思った。お金のことを考えたら苦しくなるので、とりあえず今はゆっくりリゾートしている気分でいよう。
46年頑張って生きてきた。開業して15年間、借金を返すためにずっと休まずに働いてきたじゃないか。頑張ったんだから、ちょっとくらいいいだろ。そう自分に言い聞かせる。
北海道での最初の地、ニセコ町比羅夫での生活が始まった。毎日寝たい放題、自由に起きて遊びに行って。うまいものを食べて。温泉に毎日行って。これから自分が大きな試練と対峙しなければならないことを、この時点で おれは 何もわかってはいなかった。46歳の春。ただただ、毎日を夢のように生きていた。

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