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食の都市伝説(1)「岩塩でお召し上がり下さい」


 その日、私は赤坂駅近くの蕎麦屋で遅すぎる夕食をとろうとしていました。閉店まぎわだったのでしょう、客は私だけでした。しばらくして、足音もさせずにざる蕎麦を持ってきた店員が言いました。
「最初はヒマラヤのピンク岩塩でお召し上がり下さい」
 でた! 噂には聞いていたが実際に聞いたのは初めてでした。どんどん動悸が激しくなり、ころがるように店を飛び出しました。脇目も振らず走り、いくつ角を曲がったでしょうか。息が切れて立ち止まったのは三分坂の下の薄暗い交差点でした。息を整えながらふと見ると、報土寺の角の電柱とカーブミラーの間に挟まるように、がっしりとした固太りでキャップをかぶった大男が立っています。大男は私を見ると、頭上に掲げたスパイスミルをガリガリといわせながら言いました。
「最初は岩塩でお召し上がり下さい」

精製塩は体に悪い?

 精製塩とはいわゆる食塩です。平成14年に製造販売が完全自由化されるまでは古くは専売公社、後に日本たばこしか売ってはいけないものでした。昔は浜辺の塩田に海水をまいて天日乾燥させる入浜式製塩法や流下式製塩法で作られていましたが、完全機械化されたイオン交換膜を使った海水濃縮法が1972年に登場したことで、1700ヵ所以上もあった昔ながらの製塩所はほとんど姿を消しました。当時の政府は多額の保証金を支払いましたが、大きな遺恨を残しました。保証金をもらったものの、転職しなければならなくなった関係者たちの口からは「工場で造られた塩は化学塩だ」「化学合成で造られているから健康に悪く味も悪い」等の根拠のない恨み節が絶えることはありませんでした。
 天然塩である岩塩の都市伝説の裏には、精製塩に対する偏見が透けて見えます。

カッコよくガリガリする人

岩塩の都市伝説誕生

 日本の庶民が広く岩塩を知ったのは1997年の専売制度廃止以降のことです。それまで外国のものだと思っていたスパイスミルで、カッコよく塩もコショウもガリガリできるようになったのです。しかし、自由化直後にカッコよく岩塩をガリガリしたのはハイソサエティな方達とステーキハウス等の高級飲食店だけでした。今では誰でもガリガリできますが、当時の標準的な日本人には岩塩は手が出しにくいものだったようです。筆者が思うに、リビングとキッチンではなく、畳の居間と台所の生活様式が邪魔をしていたのかもしれません。
    岩塩をガリガリしてみたい、でも恥ずかしい、そんな複雑な心境から「オシャレな岩塩が美味しくないわけがない」→「岩塩が美味しいのは海塩よりもまろやかだから」→「岩塩がまろやかなのはミネラルをたっぷり含んでいるから」→「ミネラルたっぷりだから体にいい」と、岩塩の都市伝説が一気に出来上がりました。

ピンク岩塩

岩塩はミネラルがたっぷり?

 ミネラルとは生体を構成する主要な4元素(酸素、炭素、水素、窒素)以外のものの総称で、「日本人の食事摂取基準(2020年版)」では、ナトリウム、カリウム、カルシウム、マグネシウム、リンを多量ミネラル、鉄、亜鉛、銅、マンガン、ヨウ素、セレン、クロム、モリブデンを微量ミネラルとして基準を設定しています。しかし、塩のミネラル分と限定した場合はマグネシウム(又はにがり)を指すことが多く、塩の味は塩化ナトリウム以外にマグネシウムが多いとまろやかで、優しい味になると言われています。

    そこで岩塩ですが、岩塩は陸封された海水が数億年かけて自然に精製されて塊になったものです。もう一度言いますが自然に精製されているので、少なくとも日本で販売されている半透明の食用岩塩はミネラルをほとんど含んでいません。しかし、非食用(バスソルト等)では様々な鉱物を含んだ色付き岩塩が販売されています。色付き岩塩では赤(ピンク)が多く、黒、青、緑、黄色などもあるようです。
 一般的に赤系は酸化鉄、黒は粘土や黒砂(クロムやマンガンを含む)、白は石灰石、石こう、気泡、黄色は硫黄を含むことで色が付いています。これら含有物のうち、鉱物はほとんど水に溶けず、食べても消化・吸収されず、お腹の中を素通りするので毒にも栄養にもなりません。しかし、砂や土、粘土は害がある場合もあります。なにより、衛生的環境で製品化されている保証がないので食品衛生法上は問題があります。

岩塩ビジネス

   通常、食品を輸入する際には検疫所に届け出て検査を受けなければなりませんが、 非食用の岩塩は輸入の届け出は不要で、衛生上の検査はありません。謂わばフリーパスです。ここからは筆者の妄想ですが、非食用として輸入された安価な岩塩は国内で小分けにされて「食用」として販売されているのではないかと思います。食用として輸入すると手間もお金もかかるのです。非食用の赤や黒などの色付き岩塩は何が混入しているのか分からない(食用の表記を勝手につけている可能性がある上に、成分表も怪しい気がします)と筆者は思います。あくまでも筆者の個人的な妄想です。

    後回しになりましたが、手間もお金もかけて、安全な食用岩塩を正規の手続きで輸入し、良心的に販売している方々もたくさんいらっしゃいます。これは妄想ではありません。

岩塩はまろやかだ 
 食用塩に限れば岩塩よりも海塩のほうがミネラルを多く含んでいるのでまろやかだと言えます。しかし、岩塩は海塩と比べると溶けにくいため、食べた時に塩味を感じにくいので「まろやかだ」と感じることがあるかも知れません。多くの場合、この特性を「岩塩はまろやかな味」と表現しているのだと思います。

そもそもですが…

    岩塩だけではなく、海塩に含まれているミネラルもそんなに多いわけではありません。しかし、ミネラルを含んでいないから体に悪いわけではありません。当たり前ですね。そもそもミネラルはどうしても塩や砂糖から摂取しなければならないものではありません。塩や砂糖でミネラルを摂取することを意識するのではなく、食品から十分にミネラルを摂取することを意識したほうが健康的だと思いますがいかがでしょう。どうしても塩や砂糖で必要量のミネラルを摂取しようとすると、塩や砂糖を大量に食べなければならないのですがそれでもいいですか?

岩塩が悪いわけではありません

   ここまで岩塩に関して色々書いてきましたが、岩塩を貶めるつもりは毛頭ありません。岩塩でも海塩でも、精製塩でも、好きな塩を使って下さい。また、誤解がないように言っておきますが、筆者は岩塩が嫌いなわけではありません。それどころか、使う場面や人を選びますが岩塩を使うメリットは大いにあると思っています。

岩塩を使うメリット

    岩塩を使うメリットとは「岩塩を使った」という満足感にあるのではないでしょうか。その満足感が味覚に与える影響は他の調味料に勝るとも劣りません。ならば、岩塩にはできるだけ付加価値を付けた方が満足感が増すのではないかと妄想します。例えば、「この岩塩はね、エベレストの頂上付近で、特別な訓練を受けた岩塩採掘専門登山家(通称ソルトクライマー)が、何日もかけて命がけで取ってきたから〇万円/gもするのよ。この岩塩がピンクなのはソルトクライマーの血と汗の結晶だからだわ」 
    これぐらい盛って料理を出してくれれば美味しさは数段アップするはずです。筆者なら嬉しくなって「あ~  ソルトクライマーね!  クレイジージャーニーで見たかも!   なんちゃらゴンザレスやろ?!」と答えて、美味しくいただいちゃいます。

 港区赤坂では、深夜、電柱やカーブミラーの陰で、スパイスミルを持ったなんちゃらゴンザレスが「岩塩でお召し上がり下さい」と言いながらガリガリするらしいですよ。
    信じるか信じないかは、あなた次第です。




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