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『民主耕論』を何故始めるか~「上」からでは無い「下」からの政治の場~

日本の路上は冷めている。

街歩きをするとそう思う時がある。(呑み屋街は別だが……)

整然とし過ぎてて、多分世界一清潔なのは素晴らしいが、人々が立ち止まって、路上を温めることを妨げている。「適切なスピード」か、それ以上の早歩きで、黙って目的地に向かうことを求められている気がする。

では、目的地はどこか。本当にそれは全てあなたが決めた場所か。本当に行きたいと思って向かっているのか。速足のあなたは心地よいのか。万一あなたでは無い意志が介在しているとしたら、それは何か。

「上」じゃないのか。

社会、経済、政治における意思決定者でもいいし、家族の中の中心でも良い。会社とか学校とか、所属集団で地位を得ている人でもいい。それらを総称して「上」とした時、我々は世界でも有数の「上」の影響を受けやすい民族では無いかと思う。

「俺は基本人に頼らず、この地位と富を掴み取った!!」

上のように言う人は確かにいる。ビジネス界の成功者やスーパースター達。しかし、「俺は人に頼ってない」と言い切る事で、裏で得する人(もしくは社会集団)は誰か。実は、プライドを傷付けない形でお膳立てした人がいるのではないか。「人に頼らず成功するモデル」という与えられた型を大勢が目指す事で、更に路上はあくせくした人にまみれ、冷めていき、路上から新しいものが生まれなくなるのではないか。

「地べた」から新しいルールや仕組みが生まれて行かないと、更に多くの人が「上」が与えた基準しか見れなくなり、それを目指す事が自立や独立でクリエイティブだと思われてしまう。

それは非常に寂しいし、心身の健康に悪い。

『民主耕論』はその逆を行きたい。

「下」を、「地べた」を大切にしたい。
「下」と言っても、街角もあれば、言い出せず胸の底へ沈殿していく悩みや葛藤もあるだろう。「変えられないものの筆頭」として予め胸でフタをし埃まみれにしている「政治や社会への思い」もそうかもしれない。

あらゆる「下」を大切にできないのは、「上」と違って、それが評価に結びつかず、自分のためにもならないと思ってしまうからだ。

しかし、胸の奥に沈殿した弱さや思い、言いづらいが言いたいことをできるだけ喋ると同時に、他の人の思いにもできるだけ耳を傾けた人が「優勝」となり、そこでは皆褒めてくれる路上の一角があれば、素敵なことでは無いだろうか。「下」からの評価軸になり得るし、貴重な政治の場になり得る。

『民主耕論』はそうした「路上の一角」を創造し、耕していきたい。

以下は書き手の自己紹介(現在二人います)


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