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人間はいかにして時間を感じるか~物・病・破滅へのスケジュール~

時間の成り立ちを考える。
時間は無色透明か。それとも顔を持つか。

メキシコの麻薬カルテルが川崎、東南アジア等、グローバルな悪意と結びつき計画されたカオスが咲き乱れる小説『テスカトリポカ』。(直木賞受賞)この小説の中で、深淵なるアステカのルーツが育んだ、特異な時間感覚が描かれる。

常にコシモは、時間という容れ物のなかをいろんなものがすぎ去っていくのではなくて、時間そのものがいろんな姿を持ち、表情を持っているように感じていた

このへやのコパリのけむりも、じかんがコパリのけむりになってながれている

「おれの祖母も同じだった。遠くの町へ出かけるとき、彼女はよく『帽子一つぶんかかる』とか『帽子二つぶんだね』と言ったものだ。時間が帽子の形になって目に見えているのさ。帽子を編むのにかかる時間が、すなわち帽子に宿る神のことだ。帽子の形はもともと神の住む世界にあったもので、それが人の手仕事を通して外に出てくる。帽子にも神が宿っている。それがアステカの時間だ」
(以上全てp427)

いや、この時間感覚は特異だろうか。

子供が立派な青年になれば、久々に会った人に背丈と凛々しくなった顔つきから「大きくなったねえ」と感心される。
更に時間が多く経ち、皺が伸びた分だけ「すっかり老けてしまったが、良い人生を生きている」とかつての青年が振り返るのでは無いだろうか。

アステカ風に皺何センチ分=何年、なんて時の数え方はさすがにナンセンスかもしれないが、結局人間は触れられる物や景色の表情に時間を見出すのだ。

文化圏ごとに時間をどこに見出すかは似通っていたのだろう。そしてグローバルに「人類にとって共通の時を感じる瞬間」が生まれたのはつい最近で、人類全体での時間共有の歴史は実は浅いのかもしれない。

だが人間は時に、「よく見えないもの」「実態を掴みにくいもの」に時間感覚を「連れ去られる」ことがある。

その一つが病である。

私は一か月以上前、新型コロナウイルスに感染し、約二週間療養していた。ウイルスは見えない。しかし時に高熱を出し、倦怠感があり、時間の経過とともに軽くなったり、少しぶり返したりを、一日中外に出ず、小さな部屋の中で感じ尽くす。

症状が出てからの時間。規定の療養期間から今の状態。
そして、未来を不安に思う。

不安と言えば、療養期間の後半に再度PCR検査をして、陰性という結果が出た翌日に倦怠感がぶり返した時は一番不安だった。

鏡を見ても、いつもと変わらぬ自分がいるだけ。血色も悪くない。しかし身体の内部では、行先を失った船が夜の海を彷徨うような、一日横になるしか無い状態が起きていた。

後遺症だった場合にいつまで彷徨うかは、情報を元に推測はできても、私という個体への影響を正確に測ることはできない。一度きりの、たった一つのトンネルをくぐる。
結果として、光はすぐ見えたのだけれど。

病の時間が目に見えないとして、現代人の大半もまた、目には映らないまま、時間というものを認識しつつあるのだ。

手帳、今は大半がスマホに書かれるスケジュール。忙しい忙しいとスケジュールをこなす。スケジュールの中身をイメージはできるが、スケジュールそのものを知覚する事はできない。当たり前のこと過ぎて奇異に感じるかもしれないが、見えないという点で、病と同じなのだ。

スケジュールを過剰に詰め過ぎれば最悪健康を崩し、病の時間に沈むこととなる。または、顔を持たぬ時間に感覚を麻痺させられ、物や景色を通して時間を感じる力を失った結果、情報と刺激を凝縮した「秘薬」であるスマートフォンだけは、忙しくとも何故か触ってしまう事となる。

スケジュールを消費させる事で、何らかの形で資本主義システムは利益を得ているのだろう。しかし「秘薬」は低コストで刺激をもたらしてくれるが、何か物を買ったり、文化芸術に触れた時のような効用をもたらさず、散々時間を費やしたあげく「何をやっているんだろう」と空っぽになった心身で思う。

これほどの「空振り」は前代未聞である。

現在流行りのリトリート、キャンプ、瞑想、ヨガ等は、スケジュールという「病」を治癒し、五感で知覚できるあらゆる物事(自らの呼吸さえも)から時間の表情を感じようという試みなのではないか。

こうした試みが、「程よい感覚でスケジュールをこなせるようにする」事で結果的には資本主義に回収されていくのか。それとも、21世紀にアステカの時間を蘇らせ、前人未到の領域に踏み出すことになるのか。まだ分からない。

しかし資本主義というスケジューラーは地球のカレンダーに「永遠に休暇」という予定を書き加えつつある。ならば一つくらい異質な時間が共存していてもいいのではないか。(文責K)

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