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風の吹くまま、気の向くままに 8  (志賀直哉『清兵衛と瓢箪』から) 

 小説の神様と言われた明治生まれの作家、志賀直哉が大正元年に発表した短編です。話の筋はシンプルで、小学生の清兵衛が勉強そっちのけで瓢箪づくりに現を抜かす物語ですが、つくるといっても栽培ではなく、器をつくる話です。

 それは中途半端な凝りようではなく、とにかく本物で、生の瓢箪の口を切り、中身を抜き、栓をつけ、磨き上げとすべてを一人でやり遂げてしまうのです。学校から帰ってきても、他の子供たちと遊びもせず、そのことだけへの熱中でした。 

 この尋常でない子供の所業に父親は、苦々しく思っていました。ある時、
清兵衛が学校に持ち込んで、修身の時間に机の下で瓢箪を磨き、それを教員に見つかり、将来見込みのない人間だと怒られ、取り上げられてしまったのです。

 そればかりか、教員は清兵衛の家にまで乗り込み、母親に注意を促しまた。その時不在だった大工の父親は、後でこの話を聞き、清兵衛を殴りつけ、将来見込みのない奴だ、出ていけと怒ったあげく、彼が大切にしていた家にある全部の瓢箪を打ち壊してしまいました。知らぬが仏といえるのかどうか。

 教員が取り上げた瓢箪は、それを貰った学校の小使が、ある時、金に困り骨董屋に持ち込んだのでした。それがなんと、清兵衛が十銭で買ったものを五十円で買い取り、あまつさえ骨董屋は、それを地方の豪族に六百円で売りつけたのでした。(現在では、楽々百万円を超えるでしょう。瓢箪から駒ですか。)

 この物語は何を言いたいのでしょうか。私なりに独断で考えてみたいと思います。清兵衛の瓢箪づくりには、家族として父親が苦々しく思っています。また、社会としては教員がやめさせようとします。どちらも子供の能力、特性とは関係なく社会人としての平準化を求めています。社会の枠の中で普通に暮らせる人です。その枠に収まらない人は排斥されるのです。

 そんなこんなで清兵衛の特技である瓢箪づくりはつぶされますが、へこたれず、次には絵を描くことに熱中します。大人が押し付ける既成の価値をはねのけ、新たな価値をつくるのに必要な強い気性が感じられます。自分の欲しいものへの揺るぎのない探求と集中、他には目もくれぬその没頭ぶりに、何か言い知れぬ偉才を見る気がしました。

 あくまでも社会の通俗に屈服することなく、本物に邁進すること、これが非凡人の生き方と思いますが、それを徹底すればどうしても周りとの摩擦が生じます。ある程度許容されるのは若いうちと思われますが、清兵衛の受難は永遠の課題として幾世代にもわたって惹起されることでしょう。

 親は子供を自分の思うように育てようとするし、子供は自我に走る。程度の差はあれ、対立するのは自然の理のような気がします。親子の葛藤、そこには、数えきれないほどの人の世の物語が生まれます。それと、この物語には、子供への画一的な平準化の押しつけは、柔軟な独創的な才能をつぶすことになるとの教訓があるような気がしましたが、考えすぎでしょうか。

参考文献:志賀直哉著『清兵衛と瓢箪・網走まで』新潮文庫1993年



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