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大切にしている弱さ

ここ数日で「泣くことを我慢しない」という言葉にnoteの記事やラジオで、何度か触れることがあった。
私はこの事柄に、息子が保育園に入りたての時、どっぷりと浸かった事がある。

息子は当時、本当によく泣く子だった。今思えば発達がゆっくりだったが故、言葉が出てこなかったことも理由にあるだろう。
息子が通っていた保育園は、子供同士のけんかに大人がすぐには入らない。嫌なことは自分の口で言う、その成長を促す保育を大切にしていた。すぐに泣いて言葉にできない息子は、きっと「泣いてちゃ分からないよ」とか「泣かずに言ってごらん」と言われていただろう。
母親の私もそうだった。「すぐに泣くんだよね」と言われて、息子の泣き癖を直さなくてはと、泣かない強い子にするために奮闘した。

少し話を変えて私の話をしようと思う。
私は、我慢ができるタイプの人間だ。悲しさも苦しさも不安も飲み込んで社会を生きてきた。昭和の色濃い方針を忠実に生きてきた。
そんな私は結婚をして、夫との生活の中で少し変わった。
私は腹が立つと夫を責めてしまう癖があった。罵声を浴びせ、夫に怒りをぶつけ続ける。
ある時、その最後に自分の本当の感情に気付いた。
「私、悲しかったんだ」
怒りの膜が罵声と共に1枚づつはがれて、隠されていた真の感情がむき出された。
「何気ない一言に腹が立ったのではなく、傷ついたんだ。」
「のんきな夫に怒っているのではなくて、将来に不安を感じているんだ。」
「やることが多くてイライラしているわけじゃなく、本当は助けてほしかったんだ」

夫と出会うまで、怒りも人にぶつけるタイプではなかった。
「立派な人間でいることが生きる価値」の教えを生きてきた。肌感覚でいうと「立派な子供」が「立派な大人」になれる社会。
その思考が「弱さ=恥ずかしさ」とし、隠す癖をつけたのかもしれない。
さらにそれは、「何故こんな気持ちにならなくてはならないのか」という怒りになり、怒りは膜になって恥ずかしい感情を隠した。

今もそうだけど、子育てに真の正解は見つかってない。私の育った時代の正解の一つに「立派な人間でいる」があった。
そして今、子育て中の私は、自分の経験と溢れた情報の中で息子と向き合う。失敗ばかり、トライ&エラー&エラー。素敵な情報もなまけた私に合わなければ辞めてしまう。

そんな私が、泣き虫の園児を見ていてある日思った。
「なぜ息子は泣いてはダメなの?」
お友達に叩かれたことが悲しくて泣く。うまく言葉にできない悔しさで泣く。転んで痛かったから泣く。なんだか怖くて泣く。それは息子の素直な感情だ。この子が我慢した感情は、一体この先どんな方法で処理されるようになるのだろうか。
私はその答えの1つを知っている。
その日から私は泣くことを悪いこととするのを辞めた。
「泣いていい」
泣く息子に、泣くことを我慢しようとしている息子に、私はそう声をかけ続けた。「悲しかったもんね。寂しかったもんね。泣くことは悪い事じゃないよ。」と幼い息子に言い続けた。
私は何より、泣くことを抑えきれない息子に、泣く自分はダメな子なんだと思ってほしくなかった。そして息子に泣いている子を否定してほしくなかった。

息子は今、小学5年生。
今でも夫とゲームをして負けると泣く。泣きながら「もう1回」と勝つまで勝負を挑んでいる。学校や友達との関係は、1人ですねている子の隣に行って、ただただそこに居てあげたり、雷が怖い子をその子の家の玄関先まで送ってあげたり、さりげない優しさを行動にできる子に育っている。よこしまな考えしか持たない母親から生まれたとは思えない。


「泣くことを我慢しない」
私は自分の弱い感情を、感謝をする事と同じくらい大切にしたいと思っている。


#大切にしている教え

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