仕事しながら教養を深めるということは

極めて貴族的な振る舞いと思うが、教養を深めるにはどうするべきなのか。
何故、このような疑問を持つことすらも「貴族的な振る舞い」というのかと言えば、教養そのものに価値を持つ人がどれほど居るのかに、懐疑的な感触がある故である。
コンテンツは安価に提供され、生活に不満も無し。無くても支障が無いならば尚更、教養とは趣味の範囲に括らざるを得なくなりそうでは無いか。

私は全く自身の地頭を信用していない。高卒で、偏差値も五十を前後する所だったから、統計的事実として平均並でしかあるまい。脳みそには可塑性があるという信仰は持っているが、能力の出力はスペック次第という現実も、把握しているつもりである。
平均並みの頭で、最近は読書するようになった。精読ができているのかは、テストでもしないと分からない。わりかしは、昔から本を読んできたものの、ざっと流す感じも多い。それが教養になっているのかも、不明である。
過去の経歴のこともあり、私が初めて携帯に触れたのが七年前の18歳の時。それ以降はYoutubeも観ていた。恐らく、冒頭の懐疑というのは、この時点からあったのかもしれない。実際の仕事に支障無いのに、「教養を深める」などは単なるカッコつけにしかならないのでは無いか。そういう懐疑が。

社会に出て丸二年。労使契約を結んで、仕事をするようになった。今も職場の労働者としての新鮮な目線で周囲を見渡している。
二年の歳月の割には結構な異業種の現場を見れたと思う。それでも各々の職場を見て共通することがある。スマホを弄る人が殆どである。
これは話題にも上がった『スマホ脳』の現状でもあろうが、それは後日に置くとしよう。勿論、私は他人のスマホを覗いたことはない。しかし察するに動画や漫画、ゲームなど、安価なエンタメが多いのではなかろうかと思う。紙媒体を持ってきて休憩合間とかで読んだりする人など、一度も見たことはないのである。

昔の情景は知る由も無いが、戦前の集団生活の工場労働者は、図書室を欲したりもしたようである。当時は紙媒体のエンタメと言っても、漫画ではなく小説とかではなかったか。
それでは現代の労働者は小説を読むのだろうか。というより、読めるのだろうか。その行為に費やす集中力もあるのだろうか。
私は最初に「教養を深めるには」という命題から書き出してみた。しかし、結局の所、この問い自体が現代では無意味になりつつある。これが現実に起こり続けている事象では無いだろうか。
文字に触れ、想像し、思考する。それを培う為ならば、読書とは訓練の為ということである。天災でもなんでも良いが、予期せぬ事態ということは、誰しも起こり得る。その時に訓練不足であっては、対応も覚束なくなってしまう。
教養を深める以前の壁が、やはりあるからこそ、仕事に関係が無くても読書はすべきでは無いだろうか。「仕事がある」というコトバは、非読書の習慣の免罪符としては無効になりつつあるように思う。

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実の所、この結論には元ネタがある。新井紀子氏の『AIvs教科書が読めない子供たち』である。恐らくnoteを見るような方は、この壁の深刻な場面に直面してはいないかもしれない。何故なら、現に、文章に触れているからである。
因みに読書だけすればいいということが、新井氏の書籍の結論では無い。ネタバラシとして書名を挙げたというだけである。

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