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『年を取る』という事に関しての論考

私は今年で41歳になりました。41年間生き、あらゆる事を見たり、聞いたり、思考したり、体験したりしてきました。

この『年を取る』という形は、人それぞれ違うと思います。これは『生き方』は、人それぞれ違うとも言えると思います

年の取り方に関して、ジャン・ジャック・ルソーは「エミール」でこのような記述を残しています

『十歳では菓子に、二十歳では恋人に、三十歳では快楽に、四十歳では野心に、五十歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるのだろうか』

ルソーにならうと、私は野心に40歳の時間を費やしているという事になります。このルソーの視座で私の41年間の人生を振り返ってみると、この記述も納得でき、共感できます

一概に私は41歳で、今は野心のみで生きているか?と問われれば、そうではなく、費やす時間の一部が該当していると言えます

『年を取る』ということを考えるに至ったきっかけは、『20代と40代の解釈の違い』を考えていた中で、自分なりの答えに重要な指標だと感じたからです

20代は20年間という時間を費やし、40代は40年間という時間を費やしてきた。優劣の比較はなしとして、確実な事として時間による差はある。20年間の経験と40年間の経験。ただ先ほど記述したとおり、『費やし方』の違いがある。私は、論考の中で『人』を基本材として考えた時、『人』は体験することに時間が必要であり、時間による差は他の人による現象から埋める事はできない。20歳と40歳の2人の『人』を比較した際に、明確なのは20年と40年という時間の違いがあるという事。

ここから費やした時間の違いがあるということから→その『人』から導かれる『解釈』は体験した時間に依存するという考えが導かれる

20歳と40歳の『解釈』は時間の依存が伴うと考えると、体験の時間が40歳に比べて短い20歳の『解釈』から導かれる一つの『答え』は20年の経験に伴う『答え』という事

私はこのような考えから、特に年齢が若いうちは、『体験の時間』に費やす他はないと考える

人は無能で無知であり、それを体験を通して気づく事。そうやって人は以前の自分を捨てて、新しい自分に変わっていく。それがいわゆる成長だと思う

私は41歳でこれからも生きている限り、あらゆる事を『体験』する。いくら体験をしても、死ぬまで無能で無知であると思う。それは人が『有限な存在』であり、それが『人』であるという現段階の答えがそう思わせるのです

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