2008年インド旅 コルカタ編
2月22日 コルカタ初日
起きると、物置だった。まあ、。当たり前か。
時間は朝5時。あー思えばこの時から、トラブルが始まっていたのかもしれない。
おやじに、100ルピー支払いドミトリーのトイレで顔を洗い歯を磨いた。
たぶん警官だと思うが、2人居た。
彼らは、なぜか、ズボンを脱いだ状態で、トイレに行き歯を磨いていた。これが、インドスタンダードなのだろう。
ガヤのプラットフォームは、簡単に分かる。
僕は、チケットとタイムテーブルを見合わせて、柱の下に腰掛けた。
列車の時間は6:30発だが、たぶん来ない。それは、容易に分かる。
寧ろ、分からないとい不味い。これが、インドだろう。
ガイドブックとインドで読んだ本に書いてあったが、インドを1回旅行したからってインドを分かった気になるのは間違いだ。って
たぶん、そうだろう。僕が訪れた街だって、それぞれルールみたいなものも違ったし、人の感じも違った。
インドは日本の数十倍の面積を持っている、多宗教の国。
日本だって、沖縄と北海道じゃ全く違うし、それの何十倍なんとかかんとか
だから、今回沖縄に行く。
そんなチープな言い訳で、僕は沖縄に行く。言い訳はいいんだ。ただ、行きたかったから行く。閃いちゃったんだもん。
プラットフォームで佇んでいると、中年の白人女性が近寄ってきて、何かを僕に話しかけた。
あーごめんよ。僕の英語能力じゃ全くあなたの力にはなれないのだよ。彼女も、それを感じ取ったのか僕に「ソーリー」って、はにかんで去っていった。
僕の方こそ「ソーリー」くそ。なんとなく、列車の事で相談されたのは分かったんだよ。くそ
柱の下で、再び佇んだ。空が白くなって、太陽が日差しを運んできた。この日も、若干の靄がかかっていた。
インド人の親子が、僕の座っている柱に腰を下ろした。父親と息子。
インド人の息子が、「日本人どこ行くんだ?」
「ああ、コルカタだよ」
「そうか、じゃあ俺の親父とセイムだからよろしくな」
セイム?つまり行き先が同じだからよろしく?ってことか?そう言い残して息子は去っていった。
残された、親父と僕。まあ、よくわからんが「よろしく」って僕は親父に言った。
親父は笑顔で、「ああ」って言った。
親父と僕は互いに片言の英語でコミュニケーションをはかる。
「どっから来た?」
「TOKYO」
「いい街だ」
インドで、何十回同じ会話を繰り返したか数えておけばよかったな。
「息子は、日本に行ったことがある。東京と横浜と大阪」
インド人は嘘つきだ。これは、間違いようが無く事実だ。きっと、この親父の発言もきっと嘘だ。
だけど、コミュニケーションを大切にしているって、考えればどうだろう?
きっと、国民性なんだろうけど、インド人のコミュニケーション能力は半端ない。
どうせ、二度と会うことの無い無害な日本人相手に、嘘ついてまでコミュニケーションを取ろうとするインド人。
それほど、彼らの中ではコミュニケーションが大切なのかも知れない。
嘘つかれると腹立つけど。
相変わらず列車は来ない。
南下してきた影響で、蚊が多くなった。つまり、気温が夏になってきたって事。
そして、プラットホームにおいても影響する。
僕は、ジャンボからもらった蚊取り線香に、ガヤで買ったライターで火を付けた。
親父は、「グッド」って親指を立てた。
インドの列車は遅れる。これが定説だ。定説って、どっかの誰かが言って一時期流行ったな。まあ、どうでもいい事だが・・・
2時間30分押し。これくらいがインドスタンダードだろ?マハトマガンディー?
ジャンゴに出ていた、伊勢谷なんとかって俳優が気になったんで(かっちょ良いんですわ)、検索してみたらブログにインド日記を書いていた。
彼も、インドに行ったらしい。それは、僕のウンコインド旅よりかっちょよく旅をされていた。うーん、この違いってなんでしょう?
インド来てんじゃないの?シンクロか?またー
列車ナンバーは違った?インドでは、列車のナンバーが重要になる。
まったく持って、ヒンドゥー語なるものが公用語として憲法に制定されているから。
基本は、ヒンドゥー語。僕たち、外国からの旅行者はまず読めない。列車ナンバーで判断するわけだ。
しかしこの列車行き先に「KOLUKTA」って書いてある。
僕は「うーん、どうだろう?」って、独り言を呟いていた。
とにかく確認せにゃ話にならんと、プラットフォームを歩いていたインド人に、チケットを見せながら聞いてみた。
すでに、列車は動き出していた。
インド人はチケットを見ながら列車を見た。「うん、この列車だよ」って、言うと去っていった。
僕は、くそ思いバックパックを揺さぶりながら列車と並走しながら近づいていった。
開いていた入り口の手すりにつかまり、インド人がやっているように列車に飛び乗った。
やれやれ、これでひとまず安心だが僕のシートが分からん。まったくもってやれやれ。
入り口にいた大柄で髭のはえた乗務員らしきインド人にチケットを見せながら、「シート何処?」って聞いた。
彼は、チケットを見ながら「この車両はNO.4だ。お前の車両はNO.7。だから、3つ向こうの車両だ」
「ああ、ありがとう」って僕は言った。
「いいか、3つ向こうだからな。この車両はNO.4。いいか、日本人NO.7だぞ」
地球の歩き方には、列車内の移動は出来ないみたいなことを書いてあった。しかし、ラッキーなことに移動できた。
山手線の車両移動するときより簡単に移動出来た。
僕のシートには、雌豚が座っていた。いやいや、雌豚のようなインド人。ん?インド人のような雌豚。まあ、どっちでも良いや。
僕は、チケットを豚ちゃんに見せて「ここ僕の席」って言った。
豚ちゃんは、「あっちの窓際の席あいてるから」って、「窓際の良い席だろ?」って、指差した。
僕は、言われるがまま窓際の席に座った。僕のシートは3人がけの真ん中だった。それが、一人がけの窓際になった事はむしろよかったから。
郷にはいれば郷ひろみ。まあ、結果オーライなのだって、言い争う勇気が無かった自分に言い訳しながら、車内販売のサンドウィッチを食べた。
食後のチャイを飲んでしばらく車窓を眺めていた。到着予定時刻は夕方だった。およそ、9時間の列車の旅。
車窓からは、永遠に続くかと思うほど、田園風景が続いた。見ていても、つまらんが他にすることも見つからなかったし、昨晩の睡眠がやはり物置だった事もあり、眠くなってきた。
僕は、上の寝台に登り暫く睡眠をとることにした。
1時間ほど寝ただろうか?喉が渇き目が覚めた。昼ぐらいだった。僕は小腹がすいたので、昼食を食べようと下を見た。
さっきの豚ちゃんが、おっさんと僕の席で飯食ってる。あー、今日の因縁の豚ちゃん。豚を食べない豚ちゃん。怠惰と豚ちゃんは良いのかヒンドゥー教?もう、ホントこいつのおかげで今日が最悪になるの巻き。
僕は、飯食べ終わったら移動するだろうと、たかをくくり本を読みながら昨日の残りのビスケットを水で流し込んだ。
暫く、横になっていたが食べ終わっても移動する気は毛頭感じられない、豚ちゃん。チャーシューにしてやろうかと思ったが、誰も食べないだろうと却下。
3列シートに一人しか座っていなかったので、僕は通路側に座った。豚ちゃんは、窓の外を見ながら何か食べていた。
暫くすると、3列シートの窓側が開いたので僕は、荷物を持って窓際に移動した。暫くは平和が訪れた。暫しの平穏。
気がつくと、僕の対面に豚ちゃんが座っていた。僕のシートに足を投げ出して座る豚ちゃん。まじファックなんですけど。
豚ちゃんは、事あるごとに僕の足を蹴ってくる。初めは、しょうがないと思っていたが、これって故意にやってんのかぁーって思うほどの頻度。もう、それからは当る度に「グァーヴ」って、なんか唸ってみた。
豚ちゃんは、怪訝な顔してこの日本人頭おかしいんじゃなのって顔で一瞥するのみだった。
豚ちゃんの息子を紹介しよう。
豚君。小学4年生ぐらいだろうか?典型的な、甘えさせて育てられた豚君。なんか、甘いもの食べてれば機嫌が良い豚君。
あと少しで糖尿病の豚君。自分より強いヤツは、いないって思ってる豚君。誰にも怒られた事無い豚君。
豚君、僕の横に座るの巻き。
豚君だけあって、絶えず何か食べている。お前の脳みそ糖分なくなったらとまるんじゃ無いの?ってぐらい食べる。
与える豚ちゃん。食べる豚君。もう、共食いしなよってぐらい食べる。豚ちゃんのバックはドラえもんのあれと見間違うほど物が出てくる。チョコ・卵・チップス・クッキー・りんご・みかん。豚ちゃんと豚君は食べてないと死んでしまうのか?
車内販売が通る度に、豚ちゃんは買いまくる。与えまくる。もう、脳が依存症になってるんじゃない?
キューリやらスナックやらチャイやらチップスやら食っては、僕の隣のシートで暴れる。
豚が暴れるとシートがゆれる。ちょいちょい豚君に蹴られる。
豚ちゃんは、豚君の暴れている姿をみて元気でいいわねーって、顔で豚君を眺める。
僕は豚君に視線を向けた。豚君は、豚ちゃんにくっつき抱擁しだした。
もう、意味が分からん。豚じゃん。もぅ、ポークじゃん。
まとめて、ガンガーに沈め。
インドにもオカマは存在する。カーストがあるらしい。ネットで調べたら、縁起がよいらしい。結婚式とかに現れてみんなで施しをするみたいだ。
列車の中にオカマが現れるの巻き。
それは、唐突に現れた。列車の通路から現れたオカマちゃんは日本のニューハーフとは違って、色物ってかゲテモノ。
特に、ホルモン注射とか性転換とかしてるわけじゃなくて、中年のおっさんが趣味で女装している感じ。
インド人は、色黒。インド人男性は筋張っている。目つきは鋭く、髭も生えている。ただ、しぐさが妙に生っぽい。
もう、なんやねんこの列車。まじ、腹立つわ。って、豚ちゃんとの攻防でヘベレケな僕に新たな敵が現れた。くそ
インドのオカマは縁起が良いらしく、豚ちゃんを初めとしてインド人はテンションが上がった。
豚ちゃんはチップなのだろうか、数枚の紙幣をオカマちゃんに渡した。
インド人男性はまんざらでもなさそうに、オカマちゃんと抱擁をしている。
僕の、隣にもオカマちゃんが座り施しを求めてくる。
鬱陶しいったらありゃしない。僕は、シカトし車窓を眺めた
。
オカマちゃんは、ちょいちょい僕の腕を触ってくる。
ぼくは「グガァー」って、オカマちゃんを威嚇した。
オカマちゃんは、「あら、この日本人。照れちゃってカ・ワ・イ・イ」みたいな感じで腕を組んでこようとする。腹立つわー
ぼくは、腕を振り払って車窓をガン見した。
そんな、中でも豚ちゃんファミリーはテンションあがりっぱなしで、相変わらずチップをはずんでいた。
その様子に一瞥くれた僕に対して、オカマちゃんチップを求めてきた。
「まじファック」って、言っていた。
もう、全員まとめて東京都指定の半透明ゴミ袋にいれてガンガーに流す事決定。今後のインド発展の為、僕がやってやろう。
気がつくと車窓から原子力発電所と工業地帯が広がっていた。
工場から伸びている数十本の煙突からは黄色や赤色の煙が吐き出され、原子力発電所からは水蒸気が壮大に吐き出されていた。
インドの空は真っ青に晴れ渡ることはなかった。季節的には冬にあたるから、真夏のような晴れわったった空はもともと期待出来ないのかも知れないが。
僕は、砂漠の砂嵐と自動車の排気ガスのせいだと思っていたけど、きっと工場とかの影響もあるんじゃないかって思った。
この後、コルカタからムンバイまで飛行機で移動したのだが、インドの空はスモッグで覆われていた。
窓際に座って一日中風に当たっていたおかげで、その日のホテルでのシャワーの泡は黒かった。
イカ墨入りの石鹸で洗ったかの様な黒さだった。
あたりが薄暗くなるころ列車は、速度を落としてきた。毎度、列車の降りるときがいつも緊張する。だって、駅名が分からないから。
しかし、今回は終点だった。全員で下車。豚ちゃんファミリーも全員降りた。
僕は、重いバックパックを背負いプラットフォームを抜けタクシー乗り場に向かった。
振り返って駅を眺めると、暗闇のなか駅名に「KOLKATA」と、書いてあった。
何か嫌な感じがした。
僕は、地球の歩き方を開いて地図を確認した。ガイドブックには、「ハウラー駅」からどうのこうの・・・
ん!
ん?
間違えている。くそ。くそ。くそ。ガイドブックには、「コルカタ駅」のことなんて何も書いていやしない。
駅前に親切に地図なんておいてある日本じゃない。ここは、インド。くそ
しかし、致命的に遠くは無いと思う。だって、僕が、目指していたのは「コルカタのサダルストリート」
きっと、そんなに離れては無いはず。
とりあえず、今夜の宿でシャワーと飯を食べたかった。
今日は、朝からサンドイッチとクッキーしか食べていない僕のお腹は、背中とくっ付きそうになっていた。
ガイドブックに、オートリクシャーは市内には入れないと書いてあった。
僕は、一応値段の安いであろうオートリクシャーの運転手に声をかけてみた。
やはり、サダルストリートまでは行かないらしい。
そんな、交渉をしている間にタクシーの運転手数人に囲まれていた。いつものことだ、いまさら驚きやしない。
タクシー運転手に交渉するも、どいつも謀ったようにサダルストリートまで250ルピーだと。くそ。今日の列車代金より高いタクシー。くそ
交渉するも、10ルピーのディスカウントしか出来なかった。
初めて乗る、TATA製アンバサダーの乗り心地はサスペンションが柔らか過ぎてシートもマットレスの様な素材だったから、ふわふわした感じだった。
乗り物に弱い人だったら一発で酔いそうな感じ。
渋滞の道、運転手は窓から隣の車に道を確認しながら走る。
また、他の車から道を聞かれる。
こんなの日本だったらありえない。
これがインドスタンダード。コミュニケーション能力が高いってことか?
走るアンバサダーの中から、町並みを見た。
今までの、インドとはまったく違う。何が違うか?それは、都市だった。近代都市。
日本や欧米やヨーロッパのように洗練された街ではないが、れっきとした都会の匂いがした。それは、なにかどことなく懐かしい感じがした。
僕は、インドの旅でいわゆるインドらしいインドの街を旅してきた。
きっと、インドに行ったことない人が写真を見るとインドって分かる街。
そして、コルカタはインド第二位の経済都市。
たぶん、東京を思って懐かしく感じたのだろう。
僕も、都会人になったってことだ。
相変わらず、混沌とした交通渋滞と喧騒を抜けてサダルストリートに到着した。時間は、20時。今日は、観光はあきらめるしかない。
僕は、ガイドブックに乗っている「ホテルパラゴン」を目指した。
以前、何かのドキュメント番組でサダルストリートとホテルパラゴンの特集をやっていた。
テレヴィジョンで見たサダルストリートの道の真ん中を何かの工事で掘り返していた。
迷いながら、パラゴンについた。
伝説的日本人宿だそうだ。
何の伝説なのか分からないが、多くのバックパッカー達の聖地になっているような感じ。よく分からん。
僕は、ドミトリーを希望した。一泊90ルピー。若干高い。
インドでも言える事だが、都会になるほど物価は高くなる。この後行く、ムンバイはさらに物価が高かった。おかげで、予定にないキャッシングを行う事になった。
僕の案内された部屋は、入って一番手前の部屋の入り口に一番近いベッドだった。
このころになると、チェックインの仕方も手馴れてきた。
台帳に、パスポート記載事項・ビザナンバー・入国地・前宿泊地・次の行き先地・国籍・などなどを記入するのだが、初めのころは何がなんだかわかりゃしない。
僕は、ベッドに荷物を広げ取るものも取らず、ガイドブックで調べた近くのブルー何とかってレストランを目指した。
時間は、21時近かったが流石に大都市。
深夜でも人通りは多いし、照明がこうこうと照らされ道は明るかった。
何しろ初めての街で夜だと、土地勘がまったく分からない。キョロキョロしながら歩いていると声を掛けられた。
インドで声を掛けられるってのは別に珍しいことではない。むしろ、日常的だ。しかし、今宵は今までとは違った。相手が、日本人だったのと、面識があったってことだ。しかも、2人。
大学生4年のタカチオ君とサカガミ君だった。
サカガミ君は、バラナシ最終日にお土産やで10分ほど会話したことがあった。
タカチオ君は、ブッタガヤでの最終日に座禅を組んでいた時に隣に座っていただけで話もしていない。
それぞれ、一人旅同士でまったく違う場所であったにも関わらず、コルカタのサダルストリートでの再開。これも、何かのシンクロニシィテー。しかし、インドではよくあることのようだ。
僕たちは、再会をなにかのお祝いの様に喜んだ。
しかも、泊まっているホテルすら同じだった事でお祭りのように僕たちはなったサダルストリートの日本人。
部屋は、残念ながら違ったが後で話そうと約束をして、僕はレストランに向かった。
彼らは、すでに僕が向かっているレストランで食事を済ませた帰りだったからだ。
ブルー何とかって、レストランに入るとそこは欧米で満席に近かっただった。
欧米人しか居ない店内に、インド人のウエイター。まるでインデージョーンズに出てきそうなシチュエーション。
僕は、白人の爺さんと相席になった。白ひげをたくわえた爺さん。
僕は、バナナラッシーとミックスフライドライスを注文した。ばなならっしーって言いにくい。
コルカタのサダルストリート周辺は、インドで唯一中華街のある街。だからだろうか、このとき食べたミックスフライドライスの美味しいこと美味しいこと。
日本で食べるチャーハンより美味しい気がした。ちょっと、涙が出そうになるくらい美味しかった。
僕は、この日朝からサンドイッチしか食べていなかったから、ミックスフライドライスだけではとてもじゃ無いがお腹いっぱいにはならなかった。
メニューを、カウンターから取り追加注文をした。
ミックスフルーツプディング。食後のデザートを洒落込もうとの魂胆。
このころになると店内は、やたら込んできた。相席だった白ひげの爺さんはとっくにチェックを済ましていた。
4人がけに1人の僕のテーブルに4人が座るからって、中年白人女性のテーブルに移動して相席になった。
まあ、気にはしない。僕は、白人女性に微笑んだ。彼女も微笑んでから、メニューに視線を戻した。
出てきたミックスフルーツプディングは、吉野家の並盛ほどの大きさがあった。僕は、何じゃこりゃーって思いつつ、丼にスプーンを突き刺した。
僕が間違っていたんだろう。プディングに対するイメージを。
それは、熱々のとろっとろのカスタードクリームにフルーツが投げ込まれたものだった。それは、くりーむしちゅうと見間違うかの如し。
ぼくが、間違っていたんだろ?
相席の中年白人女性からの視線を受けながら、胃に流し込むようにたいらげた。
もはや、ジャンボ白田。大食い選手権になりそうな勢い。
インドでは、小食になりつつあった時にこの量は、胃が裂けそうになった。
ドミトリーのベッドに戻り、僕はお腹が落ち着くまでしばらく座っていた。
シャワーを浴びると、泡がイカ墨のようになった。シャワーを浴びて歯を磨き、ホテルの中を歩いてみたりした。
気がつくと、このホテルは日本人だらけだった。ギターを持った20台半ばの日本人男性が同室だったので話してみた。
彼とは、気が合いそうに無かった。
ちょっと話して、僕はタカチオ君の部屋に向かった。
しかし、やたら大人数で話し込んでいる部屋だった。
僕は、入るのを躊躇して屋上に上って、月を眺めた。
上野の何とかってアイリッシュパブに入るときのほうが緊張したなって思いながら。
中庭では、さっきのギター侍が5人ほどの日本人大学生らしき集団と、僕の部屋の前の会談で談笑していた。
やれやれ、帰るに帰れやしない。
幾分かましになっていることを祈りながら、僕はタカチオ君のいる部屋に入った。
そこには、4人の日本人男性と1人の中国人女性がいて、何かを相談していた。
僕は、タカチオ君とサカガミ君とで今までの経緯を話した。
彼らは、たまたまこの部屋で一緒になったから、たまたま一緒に食事に出ていたらしい。どうやら、ここで何かが繋がったらしい。
タカチオ君は大学4年生で熊本県出身で実家のお寺を継ぐらしい。だから、ブッタガヤで座禅を組んでいたようだった。サカガミ君は、どっかの大学4年生。なんとなく、たよりなさそうな感じだった。
僕は、しばらくあれやこれや話しながら、中国人女性の明日の飛行場行きの相談とかに混ざりながら、くだらない話をした。
しばらく話していると、眠くなったので「おやすみ」を言い、ベッドに戻った。
部屋に帰ると、30台後半の日本人男性がベッドでビールを飲んでいた。僕は「こんにちわ」って言って、寝る準備をした。
ベッドに腰掛けて、しばらく話した。彼も、僕と同じような経緯で旅をしているらしい。
僕は、いつも聞くことにしている一番よかったところを聞いてみた。そうすると、彼はアンコールワットがよかったと言っていた。
行く気は、無かったらしいがたまたま一緒になった日本人女性と行ったらしい。
僕たちは、1時間ほど喋った。そうしているうちに、欧米人女性が部屋に入ってきた。どうやら、同じ部屋らしい。
僕は、出入り口に向かって話していた。彼に促されるまま、後ろに振り向くと彼女はジーンズを脱ぎスエットに履き替えていた。
つまり、パンツになっていたってこと。ここまで、文化の違いがあるのかって彼と話した。
日本人である僕たちが、逆に恥ずかしくなる感じ。
彼は、それでもガン見していた。たぶん、ビールを飲んでいたからだろう。そういうことにしておいてくれ。
彼女は、ドイツから来たって後で聞いた。彼女のパンツは3Lぐらいだった。
僕がストレッチしてたら、彼女に笑われた。僕の隣の黒人の男性と彼女はしゃべりながら。
2月23日 コルカタ最終日
時間は朝5時30分。
僕の携帯が朝を告げる。
あーくそ、昨日の設定のまま寝ちゃったらしい。体調もあまり優れないので、2度寝する。
ごめんよ、みんな。こんな、朝早くに起こしちゃって。
時間は8時。
あー、ドミトリーでも熟睡できるもんだ。まったくもってぐっすり寝た。心なしか、体調も良い気がした。
僕の部屋の宿泊客は、6ベット中3人がまだ寝ていた。それで、起こさない様に行動しながら、顔を洗い歯を磨いた。
チェックアウトの時間は、10時。荷物をまとめようか悩んだが、先にブレックファーストを取ることにした。
行き先は、昨日のブルー何とかってカフェ。
カスタードプリンで散々な目にあった感があったが、インドで僕の行ったカフェの中では旨いほうの店だった。
明るいサダルストリートは、上野アメ横を思い出させた。いや、インド自体がアメ横を彷彿させるって行ったほうがぴったりくる。
ブルー何とかってカフェは、相変わらず欧米化していた。しかも、相変わらず満席に近い。
僕は、韓国人らしき2人組みの横に相席した。
チーズトマトバーガーとバナナラッシーを食べた。
周りの欧米人を見回すと、トーストとパンケーキみたいなやつをみんな食べていた。
欧米人は、どこに行っても自分たちの食スタイルを変えないのだろうか?とにかく、パンとフライドポテトとチキンとケチャップが彼らのキーワードに思えた。
朝食後、チェックアウトまで時間があったので散歩をした。インターネットカフェは閉まっていたっても、ひとつの理由だが。
特に行きたいところも無かったので、近くにあるニューマーケットを見学しようと思った。
しかし、閉まっていた。まあ、そうだよな。日本だって、マーケットが開くのは、10時とかだもんな。
歩いていたら、昔日本でもあったらしい、氷屋が氷のブロックをトラックから引きずりおろしていた。へーって、感心しながら見学した。
仕方ないから、メインストリートのチョウロギンストリートを確認してぐるっと回ってホテルに帰った。
そのころには、寝てるのは一人だった。ギターの青年だ。彼は、昨日深夜遅くまで、数人でビートルズを歌っていた。
バックパックに荷物を詰め、トイレに向かった。すると、ブッタガヤで見かけた大学生に遭遇した。
「こんにちわ」って、僕が言ったら
「あれ、ブッタガヤに居ました?」
「あー、座禅だ!」
「なんか、ここのホテル日本人が多いみたいで、ガヤであったもう一人と、バラナシであった大学生がとまってるんですよ」
彼は、今朝コルカタに到着して今チェックインしたとこらしい。手と顔を洗いながら、僕と話していた。
彼は、僕の荷物を預かってくれるって言ってくれた。
つまりは、こうだ。僕は、この後10時までにチェックアウトする。しかし、飛行機は明日の早朝。だから、今日は唯一のコルカタ観光。バックパックを担いで観光する気だった。それを、ベッドに置いてて良いって言ってくれた。僕は、それに甘えることにした。
彼の(名前聞くの忘れちゃったんだよな)ベッドの下に僕のバックパックを入れてお礼を言った。
彼は、一休みして観光するらしい。
僕は、チェックアウトをしてネットカフェに向かった。ネットカフェは、目茶混みだった。いわゆるベリービジー。くそ
しかたがないので、待つことにした。日本人と欧米人のみの店内。10台ほどのPCが並んでいた。ネットワークもベリービジーらしく、みんなしかめっ面しながらPCに向き合っていた。しばらく待って僕もPCにあり付けたがやたらリンク切れする。もう、どうなってるんだか。
必要な情報は手に入ったので、ネットカフェを後にしてメトロの駅を見学しに行った。
チケットは窓口で買い、改札はディズニーランドみたいな自動だった。地下鉄に乗る気は無かったので、地上に出てマトンバーガーがあるって噂のマクドナルドへ向かった。
時間は、昼前。地球の歩き方片手に、地球を歩く僕。
昼間なら、ほぼ迷わずに目的地に到着する僕だったが、マクドナルドは発見出来ない。
ガイドブックは、必ずしも正確では無いのはこの旅で、おおよそ把握したからどうって事無いやって歩き出そうとした瞬間、黄色いMが僕の視界に入った。
しかし、黄色いMのみ。残りの赤い部分は工事中のシートの後ろに隠れていた。
くそ、修繕工事中らしい。シートをめくって覗き込むと、埃っぽいなかマクドナルドの面影はまったく見受けられなかった。
僕は、あきらめてガイドブックを眺めた。近くに、ケンタッキーがあるらしい。僕は、昼飯をケンタッキーにするべく歩を進めた。
ケンタッキーはすぐにわかった。日本の、いや米国のあれとまったく同じだ。むしろ、本国より綺麗かもしれない。その、理由は利用してわかった。
英語力に自信のない僕は、ジンジャーチキンのセットを購入した。店員に何か言われたが、僕は「ヤー」って言った。セットの値段は169ルピーだった。今泊まっているホテルの2日分以上。どんだけ高いねんって!
トレーを見ると、コールスローサラダが付いていた。ああ、これのこと言ってたんか!って気づくが後の祭り。僕は、あまりコールスローサラダが得意ではない。
時間は、12時。広い店内には、韓国人旅行者の4人が奥の席に座っていて後は、インド人の若者が6人ほどいた。
やはり、この値段でランチって訳にはなかなかいかないよなって思った。これランチで食ってるインド人の収入って中産階級以上だろうな。しかし、女子校生みたいなやつしか居ない。インドがよく分からん
韓国人グループの一人が僕のテーブルに近づいてきて「どこから来ました?」って日本語で聞かれた。
僕は、「東京」って答えた。
彼は、「僕は、韓国人です」って、微笑みながら日本語で答えた。
彼の、残りのグループの若者たちも笑いながら見ていた。
しばらくすると、店員のおねーさんがお客様アンケートを持ってきて、「ご協力お願いしいます」みたいなことを言った。
僕は、ハンバーガーを食べながら、アンケート用紙を見た。もちろん英語で書いてある。なんとなく分かるが全部は把握出来ないなーって。
うん、ハンバーガの味は、あーこれね日本で食べるそれと変わりない。
あー違う、米国のとい一緒だった。
そう、米国本店の味そのものと言っても過言じゃない。
マックの方が、その国の地域性を考慮している気がした。
なんにしても、米国の会社は海外進出しても米国色が強い気がした。
それが、強みになっているんだろうが。
日本企業は、果たしてどうだろう?
その国になじもうとしているのか?
まあ、分からんがインドに置ける車の日本メーカーは、インド人に主導権を渡している気がした。そうして、成功しているスズキとホンダ。
海外にいても、同じ味で食べたれるってのはうれしいことだが、相当強気な企業気質じゃないと難しい気がする。それを、こなしているスターバックス・マクドナルド・ケンタッキーフライドチキンあたりは、流石だよね。
僕は、電子辞書と格闘してアンケートを書いた。
店内の美化とか、そんな類の設問。
スタッフは、やたらにテーブルなどを磨いていた。見回してみるとピッカピカな店内。おおよそインドとは思えない綺麗さ。
インド人は、おおよそその機能が損なわれていなければ特に気にしない気質。
それが、ケンタッキーは違う。
幼い子供が来たとたんに、スタッフは風船を持って手渡す。
食べ終わったのを見計らって、トレイを下げに来るスタッフ。
セルフサービスでは最早ない気がした。
徹底した、カスタマーサティスファクションの向上。うーん、頭が下がります。
僕は、食べ終わってレジの写真を撮ると、入り口ではスタッフがドアを開けてにこやかに待っていた。インドで、こんなサービスを受けるとは。僕も、笑って「サンキュー」って言って、ケンタッキーを後にした。
さて、次の目的地はCITY BANK。
インドで4度目のATMによるキャッシング。
もう、この時点で予算オーバー。ちょっと、インドなめてました。このころになると、ATMの使い方もこなれて来てスムーズに1万円分のルピーを引きおろした。
僕は、その足で特に観光スポットの豊富では無いコルカタで目を付けた、プラネタリュームに向かった。
何故インドでプラネタリューム?と疑問をお持ちの方も居るとは思いますが、コルカタは大都市なのです。日本で言うなら大阪的な存在。
東京的な存在はムンバイ。大阪なら、大阪城であったりを観光するのでしょうが、ことインドは広大なのです。
1日しか滞在しないムンバイでは行動範囲が小さくなってしまったのです。たぶん、もっともメインの観光スポットになるであろう施設も実は、あるのです。
それは、マザーテレサハウス。「神の愛の宣教者会」の設立者。
ノーベル平和賞受賞者。
一方僕は、「死ね死ね団設立メンバー」習字で佳作受賞者。もう、うんことフォアグラほどの違い。
まあ、よく分からんが、そんな理由で行っても場違いになるだろうって、行くことを却下。
なんか、ボランティアでインド来た訳じゃ無いしな。
ボランティア精神に心打たれて活動中の方、頭が下がります。とても、僕には出来そうにありません。ピチピチの女の子がたくさん居るなら行きますが。。。
さて、僕は一人でプラネタリュウム。これも、どうかと思うが。。
入り口にいた、係りのインド人が僕を見つけるなり物凄い勢いで手招きする。「早く早く、英語の回が始まる。早く、20ルピーだ。走れ、日本人」
僕は、別に英語だろうとヒンドゥー語だろうと、ベンガル語だろうとまったくもって同じだ。だって、聞いたって分からないし。
さて、ここでベンガル語が出てきました。ちょっと触れておきますと、インドの公用語はヒンドゥー語。
これは、憲法によって決まっているらしい。
補助公用語として英語。
でも、インド亜大陸は広大。北と南じゃ文化がまったく違う。
首都は、北部のニューデリー。ここら辺は、アーリア人が多く言語もヒンドゥー語。一方、東部にあるコルカタはベンガル人が多いため、ベンガル語のほうがよく通じたりする。
今まで見てきた、スタイルの良いインド人はアーリア人だから、東に来るとベンガル人が多くなるから、どこと無く日本人に近いアジア人特有のスタイルに様変わりする。
僕は、南部には行かなかったが、南部はヒンドゥー語がまったく通じない地域もあるらしい。
海に囲まれた南部は外国からの侵略を受けないので、元々インド大陸に住んでいた人種が独特の文化と言語を形成したらしい。
あらら、なんか話が飛んだ。
まあ、プラネタリュウムは日本のそれとほぼ同じ感じ。
天井のドームが大理石を組み合わせて作ってあるのと、周りにインド人が居るのを除いて。
僕は、昼食後にプラネタリュウムに来たので、眠くてたまらない。くそ。
これで、隣にかわいこちゃんでも居たなら、もう、そりゃーすごいことになってるなーなんて、妄想が広がります。やれやれ
ちょっとの昼寝をプラネタリュームでして、ビクトリア記念堂まで歩いた。
このころのインドの気候は、Tシャツで汗ばむ陽気。
日本で言う初夏。しかし、乾燥しているのでそれほど不快ではない。しかし、喉が乾く。僕は、いつもボトルウオーターを持ち歩いていた。
このビクトリア記念堂。名前の通りイギリス植民地時代に建てられたなんかの記念堂。行ってはみたが、どうやら中には入れないらしい。
まあ、元々中に入る気は無かった。だって、入場料高いっちゅーねん。
そのまま、セントポール寺院を目指した。この寺院、インドでは珍しいキリスト教の教会。
僕は、教会なるものに生まれて一度も入ったことが無い。寺や寺院、仏閣、古墳には入ったことがあるが、教会は無かった。
しかし、公開時間は15時からだった。
僕は、15時まで近くの広大な芝生の公園で昼寝をして待つことにした。さっきの、プラネタリュウムのちょっとの昼寝が尾を引いて、顔が引きつりそうなぐらい眠かった。
その公園は、東京ドームで例えるなら、ドーム4個分はあるだろう。
端がかすんで良く見えないほどの広さ。入り口には、馬を引いた親父が立っていて、どうやら馬に試乗できるらしい。
もちろん断った。親父は「10ルピー」って、言いながら僕の後ろを馬を引いて追いかけてきた。
僕は、広場に生えているでっかい木の陰に、ほかのインド人も座っている真似をするように座った。
それはカリフォルニアでのバカンスを想像させた。
でかい木陰には、インド人が50人ほど座っていた。インドの余暇の過ごし方なのか、やたらに凧があがっていた。
僕は、バックを枕にして芝生にねっころがった。空は、相変わらずスモックがかかってた。しかし、良く晴れている。チャイ屋が、「チャーイ」って言いながら、近寄ってきた。このくそ暑いのに、熱いチャイなんて飲めるかー!って思いながら目を閉じた。
気がつくと、15時を回っていた。僕は、起き上がり教会に向かった。たぶん、インドスタンダードじゃ開いてないなって思いながら。
セントポール寺院は、案の定開いてはいなかった。
僕は、入り口の影になっている階段に腰を下ろし開館まで待った。
流石に、教会だけあって欧米人が多数待っていた。気の、短い一人の欧米人がドアをノックしながら係を呼んでいたが、梨のつぶてだった。
しばらく待っていると、ガヤで出会いコルカタで再開を果たした、タカチオ君がやって来た。やはり、考えることは同じらしい。つか、シンクロニシティー連発か?インド?
僕は、開館までタカチオ君とあれこれ話しながら時間を潰した。
開館になったセントポール寺院。僕は、生まれて初めて教会に入った。
そこは、鳩の飛び交うステンドグラスの綺麗な、重厚な造りの歴史を感じさせる建物だった。
木彫りの飾り柱はどうやって作ったんだ?って、疑問に思うほど精巧に作られていた。
展示物を一通り見た後、礼拝堂というのだろうか。映画とかでよく見るお祈りやミサを行うところに数人が座っていた。
僕は、何かが起こりそうな不陰気を感じて近づくと、仏教徒のタカチオ君が腰かけていた。僕は、横に座り「なにかあるんですかね?」って聞いた。
「うーん、どうですかね?」って、タカチオ君。
前では、インド人従者が何かの準備をしていた。僕とタカチオ君は、何かが起こりそうな気配を感じて、しばらく待った。
気がつくと、タカチオ君は寝ていた。僕は、起こさないようにそっと席をたった。
しばらく見学したが、礼拝堂では何もおきそうに無かったし、相変わらずタカチオ君は寝ていたので、僕は教会を後にした。
コルカタ最後の観光は、今朝閉まっていたニューマーケットにした。時間的にも、そろそろ空港に向かう時間に近づいて来た為だ。
ニューマーケット。すごいね。何がすごいって、地下駐車場があり、その駐車場の出入りはエレベーターを使って入庫する一大イベント。
その、車のエレベーターはガラス張りになっていて、多くのインド人がその様を眺めていた。僕も、インド人に混じり眺めた。
ニューマーケットの地下部分は、日本の駅中の施設のように綺麗だった。
ピカピカのガラスをふんだんに使った清潔感あふれる店内。
僕のビーサン、Tシャツ、ジーンズが場違いの錯覚をするインドでは稀有な場所だった。そうだ、インド第二位の都市に居ることを忘れていた。
携帯ショップもあった。端末の値段は日本円で1万円ほどしていた。
地上部分のマーケットは、上野アメ横を8倍広く2倍圧縮したような感じだった。客引きはいるものの、今までのインドと違って押しが弱い。
バラナシで日本の女の子が言っていた、コルカタショックを思い出した。
コルカタショックとは。インドに日本から入る場合、ニューデリーかコルカタが一般的だろう。
日本人の女の子一人旅で、コルカタに入り初日でインドの客引きやらのカルチャーショックでホテルから出られなくなり、そのまま日本に引き返すことらしい。眉唾ものだが。
ニューデリーから入った方がよっぽどキツイ気がしたが、ニューデリーショックなるものは聞いたことが無い。でも、僕はニューデリーショックは体験したのだろう。この言葉が、ほかに言われていなかったら僕が作った言葉って事になるのかな?
マーケットでスイーツを買い、チャイを一杯飲みホテルに戻った。
荷物を置かせてくれた何とか君が、たまたま居たのでお礼を言った。
彼は、日本人のアングラ映画監督みたいな人と知り合いになっていたらしく、呼ばれて去っていった。
何でも、これから撮影するから見学するらしい。ぼくも、時間があれば見たかったが。。。
バックパックを背負い、メトロ駅に向かった。
僕の勘違いで多めに紙幣を差し出したおかげで、多めに支払った事に車内で気がついた。8ルピーの所、28ルピー支払っていた。くそ。これも、何かの経験になるのだと強く信じ満員電車に揺られた。
ダムダム駅から、サイクルリクシャーで空港に向かった。
一番安い60ルピーの値段を示した親父のサイクルリクシャーに乗り、あたりが暗くなった街を40分ほどかけて空港に到着した。
おもえば、この親父やたら飛ばしていた。誰も、乗っていないサイクルリクシャーを何台も追い抜き、汗だくになって空港まで僕を運んだ。
空港に着くと、僕は100ルピー差し出した。返ってきたのは30ルピー。ん?出たインドスタンダード。
早速僕は、「おい、10ルピー返せ」って親父に言った。
親父は、「10ルピーチップね」って、ニヤニヤしながら答えた。
あー、もうめんどくせーって思った。僕は、何度と無く「10ルピー返せって」言った。
彼は、頑として首を振り続けた。
その様子を見た、同業者のインド人が近寄ってきて、僕に「日本人。それは施しだよ」って、真顔で言った。くそ
「施しとは、与えるものだろうがー!お前のやっているのは、詐欺っていうんだーボケー」って、英語が達者なら言えたのに・・・
僕は、日本語で「しねー馬鹿インド人。これだからインド人はなんたならかんたら」言いながら空港に向かった。
もはや、完全なる負け犬の遠吠え。振りかえると、汗だくのインド人が「なに言ってんだ日本人」て、複雑な表情で見ていた。
思えば、彼は汗だくになりながら必死には早くペダルを漕ぎ空港まで僕を運んだ。日本で30円にも満たない金額で、あれやこれや言い争うのは不毛っておもうかーボケー。僕は、器量の小さな偏屈な人間です。
明日の朝6時は発の飛行機のため、チェックインは4時台になることが予想された為、最近おなじみのリタイアリングルームを目指した。
ガイドブックに書いてある二階を探したが見当たらない。ん?あれ。これは・・・っと
たまたま、通りかかった空港職員の親父に「リタイアリングルームどこですかー?」って、発音が悪かったらしく2回ほど言い直した。
彼は、「あー無いよ」って言った。
「げ!マジか!」
彼は、その様子を見ていたらしく「1階に下りて左に行き右に曲がった所に、○○があるから行きなさい」って言ってくれた。
この、○○ってところが聞き取れなったが気をよくした僕はサンキューって言って彼と別れた。
彼は、近くまで案内してくれた。その指示されたところは、「MANAGRE ROOM」と書いてあった・・・
あー、ここでホテルの相談をしろって事か・・・やれやれ
僕は、空港から離れたくなかったので柱の下に設置された円形のクッション付の椅子を今夜の寝床に決定して、空港内の軽食堂でバーガーとコーヒーを食べた。
小さな軽食堂の奥では、キングフィッシャー航空の職員がミーティングを行っていた。テーブルにはワインのボトルがあった。
キングフィッシャー航空は、元々飲料を販売していた企業らしい。それが、自由化により旅客航空産業に進出した企業。独占運営だったエアインディアとは、サービス・クオリティーで天と地の差がある。なんか、洗練された感じ。アテンダントがサリーを着ていないってだけでも、すげーって思うのに、インドで初めてインド人女性のスカート姿を見たのもキングフィッシャー航空の制服が始めてだった。でも、スカートでストッキングを履き、ヒール付の靴で歩くインド人は、何か違和感を感じた。
トイレで歯を磨き、バックパックを枕にベンチに寝転がった。最近、こんなのばっかりだかって思った。
ムンバイ編に続く
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?