「嫌われる勇気」の再読メモ-1
数ヶ月前に、「嫌われる勇気」と、その続編「幸せになる勇気」を立て続けに読んだ。
ベストセラーとなった本だが、当時は単なるベストセラー本という程度の認識で興味も湧かなかったが、ふとした拍子に興味が湧いて、読んでみた次第。
読み進めるうちに、自分の考えを言語化してくれるような良本だと気づいた。
新しい学びがあったというよりも、そう、自分にしっくりくるという感じや、かつて同様のことを考えたことがあって忘れていた思念を、あらためて言語化してくれているというふうな感じを受けた。
諸手を挙げて全面共感するというわけでなく、所々クエスチョンとなる部分はあるにせよ、少なくとも自分にとっての良本だった。
というわけで、再読してみようと思う。その際に、せっかくなので自分がしっくりくる部分を、メモ的に、自分のための備忘として、メモとして残しておこうと思う。
はじめに
世界はシンプルであり、人生もまたシンプル。世界が「世界」が複雑なのではなく、「あなた」が世界を複雑なものとしている、と哲人は説き始める。
なぜなら
そう説く。例を挙げるまでもなく、そのとおり。この事実を、どれだけすんなり受け入れられるかが、この後の議論の分かれ目。
この世界は、「自らが意味づけをほどこした主観的なもの」である。
これを受け入れると、畢竟世界に対しての言葉はすべて、「自ら」に向けられることになる。
恐ろしいことでもある反面、人生を主体的に生きる上での大前提となるもの。
第一夜
人はみな変わりたいと願っているが変われない。それは過去の出来事があって、それが原因となり、今の現状という結果があるからだ、と青年は主張する。
今目の前に広がっている現実は、過去の原因ゆえに致し方のないことだ、と。
変わらなければいけないのは現実であって、自らはそのコントロール下にある被害者だという主張。
現在の出来事は、過去の出来事によって規定されているものだ、と。
それに対してアドラー心理学は、現状・現実を、過去の原因からではなく、今の「目的」に起因してるものだと捉える、と言う。
その目的をかなえるために、(自らが意味づけをほどこした主観的な)目の前に広がる現実世界をつくりだしているのだ、と。
例えば、今不安や恐れを抱いて足を踏み出せないとして、それは過去の出来事に起因するものではなく、足を踏み出さない現状の自分を維持させるために、不安や恐れを捏造しているのだ、と一般的な原因と結果のつながりを逆転させる。
そしてトラウマというものはないと、トラウマすら否定する。
言葉だけ取り上げれば、よく聞く内容でもあり、多かれ少なかれ誰しもが受け入れていることのように思う。過去は解釈によって変えられる。出来事を自体に客観的な意味はない。たぶん皆わかっている。
かつて、私も明確に、自分を「料理人」と捉えて人生に相対していた時期があった。すなわち、出来事は素材であり、それをどう料理するかは料理人であり、出来栄えは料理人の腕次第だ、と若かりし頃よくつぶやき、また人を励ますようなことをしていた。
アドラーの面白いところは、その解釈をさらに進めていくところだ。
何か現実をかえるためには、自らの解釈によって意味づけをする必要があるというのは、上で述べたよくある内容だが、そこからさらに、今の現状自体が、自らが望んでいるもの(目的)だと、発展させて考えていく。
例えば引きこもっている人は、引きこもりに至る過去の原因があるわけではなく、引きこもることで得たい目的があるから、いま引きこもっているのだ、とすべてを今この時点の自らの意思に起因させていくところが興味深い。
そして怒りすら人は捏造するのだと、言う。
例えば、喫茶店でコーヒーを溢されて青年は怒りに駆られて大声をだした。
その理由を哲人はこのように説明していく。
多少極端な例とも感じられるのは事実。
ただ、徹底して現状を、過去ではなく、今この瞬間瞬間に生じていく「目的」に帰着させていくことを説き続ける。
感情すら、人は抗えないものではなく、むしろそもそもが自らの目的によって「捏造」されたものだと説く。
すべてがそうだとは正直思えないが、ただこのように考えることによって、がらりと見えてくるものが違うのも確かだ。
人生の荒波のなかで小舟はただ波に弄ばれるがままの小さな存在。
そのような感覚から、わたしたち自身のうちなる力強い動力を発見していくような感覚を得られる。
自らを振り返ってみる
トラウマという言葉で自らも思い当たるエピソードとして。
過去のパワハラと言っても良いほどの上司との日々を思い出す。
徹底してしごかれ、ダメ出しをされる日々、それが何につながっているのか、何の意味があるのかすら問うことも許されず(議論の余地もなく)、軍隊のように、一つのコマのようになって、がむしゃらに仕事と数字を追っていた日々のなかで、いつしか仕事への興味を失っていった。二、三年だっただろうか。
上司の異動によってそのラインから外れ、救われた。
けれども、そこからさらに二、三年は何十人ものメンバーを抱える立場であり、いっぱしの言葉を日々口にしながらも、仕事への興味を全く失うこととなった。
すべてを上のアドラー議論で整理することはまだできない。それには、もう少し出来事を解きほぐしていく必要があるだろう。
ただ、その後の数年の日々については、仕事への興味を失っている自分というものを維持する目的で、上司のパワハラを、一つの「トラウマ」として大事に抱えていた、という解釈は今はしっくりくるものがある。
パワハラがあり仕事への興味を失ったのではない。仕事への興味を失っているからこそ、それを正当化するために、パワハラの出来事と記憶を必要としていた、これは事実のように思える。
問題はあくまで上司ではなく、自分にあったのだ、と捉えるこの捉え方は、多少痛みを伴うが、反面清々しさを感じさせる。
いったん今日はここまでとしよう。
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