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第三十六話 砂にまみれたオイカワ

もくじ

 小一時間経ったところで竿を納めた。

 マサカズの所に戻ったらまだ釣りに熱中していて、真一が背後に来たことにも気づかず、食い入るようにウキを見つめていた。

「どう、釣れた?」
「来た!」

 声が重なった。竿を握る腕が持ち上がり、水面から飛び出した魚が、振り子の軌道を描いて迫ってくる。

「あっ、くそっ」

 マサカズが道糸をつかむ前に、魚が針から外れてしまった。ぽちゃん、と小さな水音を残して、黒い影が川波の下をくぐり抜けていく。

「惜しかったな」

 残念そうに魚の行方を見つめる背中に、真一は声をかけた。バケツを覗き込むと、三十匹は下らない魚が泳いでいる。実に、真一が釣った数の倍近い。

「へえ、やるじゃん」

 素直にそう言った。

「エサをつけるのと針を外すのが素早くできてたら、もっと釣ってましたよ」

 まあ、そうだろう。ハヤ釣りでは、百を超える釣果も珍しくない。マサカズが釣りの初心者で、一時間も竿を出していないことを考えると、この結果は上出来だ。

「この魚、食えますか」

 マサカズは、真一の向かいに回ってバケツを覗き込む。

「食えるよ。唐揚げとか天ぷらにして。あとは甘露煮かな。でも、内臓は取ったほうがいい。苦味があるから」

「食ったことあります?」

「いや、俺はない。人から聞いた話」

 子供の頃、釣ったハヤを食べるという発想はなかった。竹竿を作っていた文房具屋の主は、昔は食べたと言っていたし、友達の父親にもそう言う人はいたが、海の魚が簡単に手に入る時代に、わざわざ川魚を釣って食べようという人は、少なくとも真一の周りにはいなかった。古くからの土地の人でも限られていたと思う。

 しゃがんで竿を置くと、バケツに手を入れ、いちばん大きい魚に狙いをつけた。しばらく追い回してすくい上げる。

「おっ」

 手のひらに乗った魚を見て、真一は小さく目を見開いた。下っ腹がきれいな夕焼け色に染まっていたからだ。

「そうそう。この魚、オイカワじゃないですよね」
「ああ、これはウグイ」

 昔、「ハヤ」 と一緒くたに呼んでいた魚のうちの一種類だ。

「赤いのは婚姻色ですか」
「そう」

 うろ覚えだが、ウグイはオイカワより早い時期から婚姻色が出ていた気がする。まだ春が浅い時期に、下っ腹の赤いウグイを釣ったことがあったような……。

「それはそうと、あいつら遅いな」

 ふと気づいた真一は、遊歩道のほうを見た。石畳の遊歩道に人の姿はない。階段や吊り橋を見上げても同じ。小林たちと別れてかれこれ一時間が過ぎた。さすがにこんなに長く風呂に浸かってはいないだろう。

「湯あたりでもしてんのかな……」
「まさか。年寄りじゃあるまいし」

 マサカズは鼻で笑ったが、真一は実際に見たことがある。

「いや、若いからって油断できないぞ。俺は高校の時の修学旅行で見たからな。風呂から上がった途端、脱衣所でぶっ倒れた奴。口から泡まで吹いて大騒ぎになった」

「マジっすか」

 実際に口にしてみると、その時の光景がはっきり蘇って心配になってきた。二人仲良く湯舟に浮かんでいなければいいが……。

「とにかく旅館に戻ろう」

 バケツの取っ手をつかむ。

 浅瀬に行って中身を空けると、水と一緒にたくさんの魚が絡まり合いながら落ちていった。一目散に深場へ逃げていく様子を見届け、バケツをゆすぐ。

 バケツの水を切って、振り返ったときだった。
 川砂の上で何かが動いた。

 怪訝に思って目を凝らすと、再度小さな影が跳ねる。
 近寄ってみると、砂にまみれたオイカワが一匹横たわっていた。

 マサカズが釣りに夢中になっている間に、バケツから飛び出してしまったのだろう。確かに、この魚はよく跳ねる。だから、子供の頃、竿と網を一緒に釣り場に持っていかなければならなかった。バケツに網をかぶせておかないと、しょっちゅう外に飛び出してしまい、拾い集めるのが大変なのだ。

 砂の上のオイカワはかなり弱っていて、手のひらに乗せても暴れなかった。もし見つけてやらなかったら、死んでいたに違いない。

 浅瀬へ持っていき、しゃがんで川の水に浸す。体の砂が落ちたことを確認してそっと手を引くと、オイカワははじめ腹を上にして死んだように水面を揺蕩っていたが、ほどなく回復して、ゆるゆると深場へ泳いでいった。

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