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第二十話 花明かり

もくじ

 祭の余情を残す第二広場に、少しだけ活気が戻っていた。並んで咲くモクレンとハクモクレンの下で、小学生くらいの男の子と父親が、野球のバッティング練習をしている。父親が下手に放ったボールを、男の子がプラスティックのバットで打ち返すと、ぽこんと間延びした音がして、ピンクのカラーボールが青空に緩やかな弧を描いた。
 遊歩道にもジョギングしたり、桜を眺めている人たちがいる。それぞれラフな格好をしているから、地元の人たちだろう。
 歩きながら、様々な色が目に飛び込んでくる。ここ一週間ほどで、アパート周辺の景色はずいぶん春めいてきたが、緑豊かな蓬莱公園は、季節の変化がいっそう顕著だ。道端をタンポポやハナニラが彩り、視線を伸ばせば、ナズナやオオイヌノフグリの群落も見える。切土斜面に咲き乱れた薄紫の小さな花はスミレ。四阿あずまやに寄り添うコブシは、通常なら桜が咲く前に散ってしまうが、年によっては一緒に咲くこともある。今年はそういう年らしい。
 春の色に目を奪われているうち、とりとめもなく湧き出していた思考は、どこかへ行ってしまった。
 いつの間にか第二広場も過ぎ去り、スポーツの森の外縁を歩いていた。西の山に向かって、メタセコイヤの並木道がまっすぐ伸びている。道の両側、樹木と金網に囲われたテニスコートに人はいない。
「シン」
 不意に名前を呼ばれて前を見た。
 道の先で、背の高い人影が手を挙げている。青みを帯びた桜並木のカーブから、たった今出てきたばかり。
久寿くす彦……」
 真一は足を止めた。若者の肘には、広場に取りに戻ろうとしていた紺色のナイロンジャケットが、引っ掛けられていた。
「遅かったな。何してた?」
「いや、ちょっと……」
「ちょっと、何だ。ウンコか?」
 口ごもった真一に、久寿彦は勘繰るような目を向けて、ナイロンジャケットを押し付けてきた。そのまま脇を通り過ぎようとしたので、ひるがえって隣に並ぶ。
「ほかの連中は?」
 歩きながら、ナイロンジャケットに袖を通す。
「まだシートにいる」
「池に飛び込んだ奴らも?」
「ああ、あいつらか……。松浦は美汐と一緒に直接店に行った。川崎と五所川原はとりあえずシートに戻ったけど、すぐにスポーツの森のシャワーを浴びに行くって言ってたな」
「岡崎たちは?」
「あいつらもじきに戻ってくるよ。市民農園のシャワーは数が少ないから、みんな一緒じゃないだろうけど」
 そう言う久寿彦も池の水を浴びたので、このままでは店に出られない。店は制服着用 (トレーナーにスラックス) だから、私服の汚れを気にする必要はないが、やはり全身洗い流したほうがいいだろう。
「残りの奴らは、夜桜見に行くってさ」
「じゃあ、やっぱりこっちに……」
「いや、山に登るって」
「ああ」
 真一は納得してうなずく。彼らは、西の山の四阿に行くつもりだろう。四阿は崖っぷちにあって、龍神池を囲繞いにょうする桜並木を一望することができる。夜桜を眺めるのなら、七時以降がいいらしい。その時間になると、雪洞とは別に設置された照明器具が、強い白色の光で桜並木を照らすからだ。漆黒の闇に浮かび上がる細やかな花弁は、夜空に散りばめられた無数の星屑のよう。四阿に行けば、白銀の粒子が形作った光の川が見て取れる。それは、宇宙の高みから銀河を眺め下ろしているかのような壮麗な光景だそうだ。
「ふうん、見たかったな、夜桜」
「あれ、見たことなかった?」
 ぽつりと言った真一に、久寿彦が意外そうな顔を向ける。
「実は、ね」
 この街に暮らして五年も経つのに、我ながら不思議に思う。蓬莱公園の夜桜は有名なので、常々見たいとは思っているのだが、いつでも見に行けると思うと、かえって見に行かなくなってしまうのかもしれない。東京の人が、必ずしも東京タワーに行きたいと思わないのと同じ心理だ。
「でもまあ、用事があるならしかたないか。明日にでも見に来れば?」
「いやいや」
 さすがにそれは面倒くさい。真一は苦笑いで首を振る。
「まあ、一人で来ても面白くないか」
 久寿彦も同調して笑った。
 松浦や岡崎と同じく、久寿彦も公園下のレストランで働いていたときの仲間だ。今日集まったメンバーの中で、唯一、真一と同い年。店ではバイトリーダーという肩書きだが、厨房に入ることもあって、一般のパート・アルバイトとは扱いが違う。ホールやカウンターの責任者でもあり、実際のところバイトと言っていいのかどうかわからない。
 今日、幹事を務めたのも久寿彦。面倒くさがり屋の松浦は、自分で花見をやると決めたくせに、幹事の役を久寿彦に丸投げしてしまった。日中、久寿彦が真一たちのところへ来なかったのは、普段顔を合わせる機会の少ない人間との会話を優先したからだろう。宇和島や野田は、高校時代の後輩だと聞いている。
「でも、マサオはどうするんだ? あんな奴、危なかっしくて山の上まで連れて行けないだろ」
 四阿までの道はけっこう険しい。急な階段があったり、地面に木の根っこが出っ張っていたりする。道のりの大半が森の中だから、夜になれば真っ暗だ。マサオみたいな酔っぱらいが、そんな所を歩けるのだろうか。
「あいつはもう大丈夫。稲城が草むらで吐かせたら落ち着いたよ。今、シートで寝てるけど、もう少ししたら起こすってさ」
 久寿彦はあっけらかんと答えた。
「見てくるか? 蓑虫みたいになってるぞ」
 風邪を引かないようにと、マサオはブルーシートで巻きにされてしまったらしい。隙間風を防ぐため、くずかごを漁って拾った新聞やダンボールを、一緒にシートに詰め込まれた。川崎と五所川原は、さらにマサオの靴やら草むらに落ちていたエロ本やらも突っ込んで、ささやかな復讐を果たしていたという。
「でも、何だかんだ言って、今日はあいつ中心に場が回ってた気がするよ」
 真一は、この半日を振り返る。騎馬戦の馬を作って池まで練り歩いたり、胴上げや神輿投げをやったり――一連の流れはマサオが作ったと言っても過言ではない。マサオは、みんなに除け者にされつつ、みんなの中心でタクトを振るという、矛盾した奇妙な役を演じていた。そう考えると、彼はやっぱりジョーカーだったのかもしれない。
「ところで、あいつ、お前の知り合い?」
 そういえば真一は、マサオについて何も知らない。顔の広い久寿彦なら、何か知っているだろうか。
「知るかよ、あんな奴。松浦たちの仲間じゃないの」
 しかし、返ってきたのは、どこかで聞いたような当てずっぽうな答え。
「おいおい、お前、幹事だろ」
「そう言われてもなあ……。宇和島にメンバーの確認を取ったときにも、名前が挙がってなかったし……」
 困惑顔に嘘はなさそうだ。
「じゃあ、あいつ何者なんだ?」
「わからん。日中、川崎や野田に訊こうとしたんだけど、なぜか訊きそびれちまったんだよ」
 何だか、狐につままれたような話だ。こんなことになるのなら、松浦を輿こしに担いだときに訊いておけばよかった。
 久寿彦が言うには、マサオは、真一より一時間ほど早く広場にやって来た。それでもみんなより遅い到着で、気がついたら手酌で酒を飲んでいたという。
「どこかの酔っぱらいが、お前らを仲間だと勘違いして、紛れ込んだんじゃないのか」
 冗談めかして言ったら、久寿彦は、かもな、と笑った。
 本当にそうだったら面白い。見ず知らずの酔っぱらいが、輪の中に紛れ込んでいたなんて、春の珍事だ。

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