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第二十一話 入相の鐘

もくじ

 第二広場に差し掛かったあたりで、会話が途切れた。歩幅の大きい久寿彦に、真一は遅れを取り、モッズパーカの背中を追って歩く。
 仄かな花明かりを放つ遊歩道は、まだどこか騒然としている。日中歩いていた花見客の気配が、消えずに残っている感じ。地面についた無数の足跡が、そう思わせるのかもしれない。
 この区間は、桜のトンネルがまっすぐ続き、見通しがいい。延々と垂れ込める花の雲。随所で舞い落ちる薄紅色の雪片が、ひらひらと地表の鹿の子模様に加わっていく。見事な桜並木だ。このままずっと歩いていたくなる。遊歩道は公園を一周しているから、道なりに歩いている限り、花の回廊は永遠に終わることがない。
 やがて、一段と華やいだ一角が近づいてきた。第二広場の斜交はすかいに開けた待合広場。小ぢんまりしたスペースに、ペンキをぶちまけたみたいに春の色が氾濫している。中央のツツジにこそ花はないが、広場の外周に沿ってレンギョウ、ユキヤナギ、ボケ、椿などがけんを競い合い、鮮やかな色彩が目に痛いほど。今年は本当に色々な花が咲き揃った。花見に訪れた人たちは幸運だ。
「何か飲んでいくか? おごるよ」
 久寿彦が足を止めて振り返った。まっすぐ帰るつもりなら、ここで久寿彦とお別れだ。レストランは待合広場を抜けて、森の坂道を下った所にある。
 真一は、腕時計に目をやる。もうすぐ六時。ホテル時代の先輩と約束した時間は七時だから、時間があるといえばある。
 少し考え、やっぱり帰ることにした。コーヒーの一杯でも飲んだら、帰り道が慌ただしくなってしまうだろう。
「んー、今日はいいや。また今度誘ってよ」
 黙ってうなずく久寿彦。すぐに別れを告げず、後ろ向きに歩きながら、真一と会話を続ける。
 遊歩道から少し逸れたところで、ふと足が止まった。頭の上に桜の花がなくなったその場所で、空を見上げている。
「もう青春時代も終わりかなあ……」
 誰に向けられた言葉でもなかった。あたかも、空に言わされてしまった、という感じだった。
「はあ?」
 真一は眉を吊り上げる。
「……いや、なんとなく」
 我に返った久寿彦は、バツが悪そうに鼻の下をこすって、そっぽを向いた。ただ、真一に理由を問い詰めるつもりはない。どうせ、大した意味などないだろう。幹事をやった疲れが、今になって出て来たのかもしれない。
「フッ、じゃあ、またな」
 別れの手を挙げると、前を向いてペースを上げた。
 じゃ、とやっぱり決まり悪そうな声が、背中に届く。
 龍神池に至る坂を下りつつ、桜並木の合間に覗く暗い水面に目を向ける。瀬戸のような池面を挟んで向かい合う二つの山の頂こそ、まだ夕陽に照り映えているが、池畔の大部分はうっすらした闇に呑み込まれて、形や色が判然としなくなりつつある。
 対岸の山の麓に点々と連なる雪洞の灯が、池に浮かぶ狐火のようだ。暖色の灯火は、桜の薄紅色や夕闇の青とうまく調和して、夢幻の世界を作り上げた。すべてが中間色で統一された、淡くぼんやりした世界と真一は対峙している。白色の照明が点灯したときの光景を見たことがないから、おいそれと甲乙はつけられないが、薄暮の桜並木も、夜桜に負けないくらい風情があると思う。
 坂の終わりで、池を巡る遊歩道に合流した。青い闇が満ち始めた池畔に、いつの間にか人が戻りつつある。夜桜を待つ人々は誰も、どこか落ち着かない様子。祭りの第二幕に期待する心が窺える。
 だいぶ大気が冷えてきた。水面に滲む春灯も、寒さで引き締まったかに見える。
 真一はスクーターの運転に備えて、ナイロンジャケットのジッパーを目一杯引き上げる。
 ちょうど入相いりあいの鐘が鳴った。公園の外れの寺でかれている鐘だ。
 鐘の音は、透明な夕空に、さえざえと響き渡っていく。
 人々に一日の終わりを告げる音。
 前を歩いていた人が足を止めて、空を見上げる。
 真一は立ち止まることなく、余韻に耳を澄ませた。
 うっすらした音が胸に染み渡る。
 だが、その音が、自分の人生における一つの季節の終焉を、密かに告げていることに、真一はまだ気づいていない。

 弁天橋の前を通りかかったとき、島から眺めた光景が頭に蘇った。
 対岸の石垣の上に、連綿と咲き連なった桜並木。どの木も、見事な夕焼け色に染まっていた。
 風が止んで池のさざなみが凪ぐと、しんと澄み定まった水面に、写真と見紛うほど精緻な水影が浮かび上がった。
 静寂の中に生み落とされた束の間の奇跡。もう一度風が吹けば、跡形もなく消えてしまう。
 そのとき、真一は巧まざる芸術作品のたった一人の鑑賞者だった。周りに人影はなく、声もしなかった。
 凄艶な光景に、思わず息を呑んだ。
 咲き誇る桜は、水面の倒影もろともに、こちらへ向かってきそうな勢いを感じさせた。一帯の空気は張り詰め、水を打ったような静けさの中、無数の花がぜ返る音が響き渡っている気がした。
 そう――
 桜の花は、今、まさに、盛りの絶頂にあった。

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