見出し画像

短編小説 | 蛍

今年は、僕の15回目の夏だ。何度この季節を過ごしても、暑さには慣れない。学校の帰り道で、コンビニに寄ってアイスのガリガリくんを買う。ガリガリくんが結局アイスの中で1番おいしい。夏になって、暑くなってきたら、学校からの帰り道で必ずコンビニによる。そうして、パンの棚の目の前の冷凍庫で、お祭りでバケツの水を泳ぎ回る金魚さながら、ひしめき合いながらこちらを見上げるアイスたちの中から、素早くガリガリくんの袋をつまみ出す。

この習慣は、僕が小学3年生の夏、江ノ島の海水浴場に家族で泳ぎに行ったとき、出店で買ったガリガリくんを食べたことから始まった。染み渡るような冷たさと、ほんのりした爽やかな味を"良い"と思ったことがきっかけだ。

多くの選択肢がある中、ガリガリくんを選び続けるということは、推しのアイドルを見つけたときのような特別感があった。けれど、毎年、毎年暑い日がやってくるとガリガリくんを選ぶという行為は、次第になんの感情も伴わなくなり、機械的になっていった。僕のこのような行動パターンは、生活のいたるところに見られる。朝、家を出る前には、必ずバナナを一本食べるし、使ってるシャーペンが壊れたら、必ずクルトガの青いものを買う。靴は、ナイキのスニーカーをいつも選ぶ。最初はやっぱり推しを見つけた感覚で、気分がいいけれど、次第にそれは決まった習慣になっていき、自分が気づかないうちに生活に溶け込んでいった。

ーーー

学校終わりにバイトをして帰ったら、23時を越えていた。姉と二人で暮らしている古いアパートのドアを開けると、中は真っ暗だった。いつもなら姉がご飯を作って待っていてくれているのだけれど、部屋はしんと静まり返っていた。部屋はキッチンと寝室の二つに分かれている。玄関でしばらく立ち尽くしていると、奥の部屋から物が擦れる音が聞こえてきた。その音に耳を澄ませてみると、微かなうめき声のようなものも聞こえてくる。荷物をキッチンの床にそっと置いて、ガラスの引き戸に緊張して硬くなった手をかけた。

寝室の中に入る。すると、部屋の隅のベッドの上に、大きなエビがいた。暗闇の中、黒い物体がベッドの上を転げ回っている。この異常事態に一気に全身の毛穴から冷たい汗が噴き出した。頭の中が混乱し、パニックになった。しかし、その独特な動きをしばらく見ていると、なんだ、エビか、と冷めた気持ちになってしまった。

体を左右にくねらせ、跳ねている。それは、エビにしか見えなかったけれど、僕の姉だった。僕は黒々とした闇の中で、体を震わせながら悶える姉を見て、綺麗だなと思った。僕は彼女のベッドに近づいた。暗い影を落としながら近づいてくる僕はきっと姉から見たら怖かったことだろう。姉は、一瞬動きを止め、瞳孔を広げて僕の方を見つめた。その時の彼女は、指を鉤爪のように立てて、襲いかかるような形で手を頭上に持っていき、足は無造作に投げ出され、まるで猫が体をひっくり返されて、威嚇する時のような格好になっていた。僕は、その格好がおかしくて、ふっと笑ってしまった。

姉の枕元には、白い錠剤が入った小瓶が置いてあった。錠剤が白くぼんやりと暗闇に浮かび上がり、命の末恐ろしさみたいなものを感じさせた。姉は、睡眠薬を大量に飲み、自殺を図ったのだ。僕は、死が身近に訪れようとしている姉を見て、それがもはや姉でもなく、人間でもなく、滑稽な動きをする変な生き物に見えてしまい、恐ろしさよりもそのおかしさが勝り、妙な気持ちになったのだった。

僕は、帰ってからお風呂に入っていないことを思い出した。僕が姉から離れると、再び激しい音を立てて、姉は暴れ始めた。学校やバイトから帰宅したら、まずお風呂に入ることが僕の生活に固定化された習慣だった。浴室の電気をつけ、湯船にお湯を溜め、シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱ぎ…。いつも決まった手順で入浴するのだったが、部屋を出て浴室に入ると、電気をつけるのを忘れていることに気づいた。その瞬間、僕の固定化された日常が壊されたのだと気づいた。

浴室の中に、カーテンの隙間から夜の街の青白い光が入ってくる。その景色の静けさは、浴室の中の気配をより鮮明にした。蛇口から流れ出すお湯が、水面を突き破る時の、泡が弾ける音が浴室の中にこだましている。僕は、裸になった胸に、窓から差してくる光を受けた。鳥肌が立っていた。粒のひとつひとつが際立って、まるで肌を構成している細胞が細かく見えているかのような錯覚に陥った。それだけ、感覚が冴えていた。浴槽の蛇口を、シャワーに切り替えて、シャワーのヘッドから飛び出す水に身を預けた。水が肌にぶつかる感覚が気持ち良い。目を閉じて顔を上げ、髪をかき上げた。水が体の隅々を這っていくのを感じた。目を開け、お腹の辺りを見ると、水にさらされた細かい毛が深海を漂う海藻のように、気ままに揺れていた。ここにも、自然の営みの片鱗があるんだと、僕は珍しく感動した。浴槽の水面が、光の輪をいくつも作ってさざめいている。薄い水色のお湯は、いつもより透明に見えた。それは、カビがはびこった天井に、幻想的な光を映し出していた。

タオルにボディーソープをつけ、体を擦る。泡がまとわりつく。それは、儚げに弾ける。細かく。

再びシャワーを浴びると泡は円を描いて排水溝に消えていった。僕はしばらくそのねじれるような水流を眺めていた。この排水溝はどこに繋がっているのだろう。ねじれるようにこの暗闇の中に消えていく僕の垢はどこに消えていくのだろう。

排水溝の周りに引っかかっている長い髪は僕の髪ではない。姉の髪だ。姉の髪はとても濃い黒だ。それが、今にも穴に吸い込まれそうになって毛先を震わせている。

僕は浴室を出た。体を拭かずに寝室に入った。部屋の中は見たことのない世界で埋もれていた。時々パソコンの青い画面が勝手に起動する。窓から差してくる車の青いヘッドライトが壁を駆け抜ける。壊れかけた街灯の朧げな光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。細かい明滅を繰り返し、闇の中で青い光が蠢いているその様は蛍の大群のようだった。

再び姉の前に立った。姉から見たら僕はどう見えていたのだろうか。裸で全身濡れていて、震えている。もしかして、エビに見えていたのかもしれない。彼女の二の腕のあたりを人差し指で押して見た。すると、ゴムのような弾力があり、僕の人差し指の先端は皮膚の中に埋もれていった。指を離すと、肌は時間をかけて元の滑らかな表面に戻っていった。それが楽しくて、僕は何度も何度も彼女の皮膚に指を立てた。彼女がぐったりしていて、もう死んでいるということに気づいたのは、それから随分時間が経ってからだった。早朝4時前。カーテンが青みがかり、朝が近いのを感じた。姉の表情が少しずつ見えてくると、彼女が目を開いて、瞬きをしていないことを知った。少しと飛び出した目は、ぼんやり焦点があっていなかった。おでこに手を置くと、ひんやりと氷のように冷たかった。

まるで、夢だった。こんなことはとても信じられなかった。だから、返って大きな声で笑った。腹を抱えて笑った。

「さよなら、姉ちゃん。今日は、僕たくさんエビを食べるよ」僕はそう言って、思いっきり自分の左腕を噛んだ。けれど、噛み切ることはできなかった。顎が疲れたので、口を離すと、くっきりと歯形がついて、少し血が滲み出ていた。その傷は、姉が燃やされた後も、墓の中に入った後も、しばらく残った。けれど、いつの間にかそれは跡形もなく消えていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?