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神頼み

先日、母親に神社にお祓いに行こうと誘われた。今年僕は24歳で、本厄の年だ。しかし、神社へ行く約束の日の数日前から、僕は風邪を引いて寝込んでしまった。

お布団の中で、本を貪り読んでいるうちに、お祓いの前日までそのことを忘れてしまっていた。そのこともあり、前日の夜母親に、今夜はお塩を入れた湯船で身を清め、神様にお言葉をいただけるようお祈りしなさい、と言われた途端、お祓いに行くのが面倒になった。自分の運命を、全く知らない神なんかに左右されてたまるか、というような生意気な感情が芽生え、その場でお祓いに行くのを断ってしまった。母親は、ずいぶん前から約束していたのに!と言って、とても腹を立てていた。僕は、きまり悪くてさっさと寝てしまった。

次の日、母親は朝早くから家を出た。一人で神社に行くらしい。僕は、布団を頭からかぶって寝たふりをしていた。

神社に行かずに仕舞った自分は、つとめて今年が本厄であることを忘れようとした。金欠で、大学に行く交通費すらなかったため、単発のバイトに行った。千駄木のとある飲食店である。店長と、人の良さそうな男の人と、可愛らしい女の子が働いていた。店長は、言葉少なに僕をロッカーに案内した。着替えて、厨房に入ると、男の人が口元に微笑を浮かべながら、のんびりと挨拶をしてくれた。女の子も、僕に気づいて振り返り、はにかみながら挨拶をしてくれた。振り向きながら会釈をしたため、上体が少しふらついているのが可愛らしかった。

年始で人々の財布の紐が固くなっているのか、お客さんは少なく、暇だった。それもあって、僕は店員の人たちが、作業しているのをじっと見つめていた。人の良さそうな男の人は、お店に人が来るたびに温かいお茶をもてなしていて、それは店のルールなんだろうけど、とても良い光景だった。僕も真似してお茶を出したら、その人がたた、と近づいてきて、ありがとう、と声をかけてきた。なんだか、その言葉が胸に沁み、感極まって涙が出そうになった。店長は可愛らしい女の子につきっきりで、作業のやり方を教えていた。女の子は時折愉快な笑い声をあげていて、きっと店長もそばでこんな可愛らしい子が笑っていたら気分がいいだろうな、と思った。僕は特にやることが無くて、洗い場の前で所在ない気分で、シンクに映る自分の顔をぼーっと眺めていた。すると、自分の横でごにょごにょ何か言う声が聞こえて、振り向くと女の子が恥ずかしそうに口を結んで油受けの道具を置いて、くるりと背をむけ、向こうに行ってしまった。どうやら独り言を聞かれたのが恥ずかしかったようだ。僕は、人の柔らかい感情に触れるのが久しくなかったような気がして、胸が躍った。

シンクにお湯を張り、そこに沈めて汚れをふやかした食器を、濁ったお湯に嫌気がさしながら取り出し洗っていると、若い男の人が厨房に入ってきた。彼は、僕に軽く会釈して、ロッカールームに行き、パソコンで何やら作業をしている店長に話しかけた。
「今日、僕の家、火事になったんですよ」
男の人は笑いながら言った。
僕は耳をそばだて、彼らの会話を聞いた。店長は、驚いて、笑い事じゃないでしょ、大丈夫なの、と返した。男の人は、ますます豊かな笑みを溢して、大丈夫だから来ました、となんでもないような調子で答えた。調子の良い人だな、と思い、おかしくもあったけど、少し恐ろしくもあった。着替えると、洗い場にいる僕の前に来て、後ろ手でエプロンの紐を結びながら、単発で来ました〇〇です、と簡単な自己紹介をしてくれた。彼は僕の名前を尋ねた。僕が佐藤だ、と答えると、佐藤さんの名札は無かったんですか、同じ名前の人居そうですけどね、と笑いながら言って自分の胸についた名札を弄び始めた。自分が気になって名札のことを尋ねてみると、最近何度もこの店に来ているため、店長が作ってくれたのだ、と嬉しそうに言っていた。この人も可愛らしい人だな、と思った。

夜8時半、バイトが終わって、外に出ると、冷たい強風に煽られた。マフラーに顔を埋め、懐手で歩いた。しばらく歩いていると、駅までの道順を間違えたことに気づいた。少し泣きたくなった。冷たい外気で孤独感が募り、寂寞とした感情の中で、お祓いに行かなかったことを思い出した。その事実が頭にこびりついて離れなくなった。駅から店に来るまでの道に、小さな神社があったことを思い出した。そこに金色に輝く巨大な観音菩薩が建立されていたな、と思い、そこに足を運んだ。

小さな鳥居をくぐると、御殿の前の両脇に、十一面観世音菩薩と書かれたのぼりが風にはためいていた。僕は灯りに照らされて、眩い光を放つ巨体の観世音菩薩を見て、自分の不信心に気を悪くした仏様が突然烈火の如くお怒りになって、地震でも起こして自分の前に倒れ込んでくるのではないかと思った。怖くて、逃げてしまいたいと思った。しかし、お顔が隠されて見えないので、怖いもの見たさで、御前に行き、下から覗いてみた。

薄目を開けてぼんやりした表情のお顔がそこにあった。僕はその悟り切った様なお顔に、自分の邪心が全て見透かされているような気がして、思わず両手を合わせて頭を垂れた。大切な人との縁をことごとく絶ってしまった今の自分の状況を思い、今年新たに生まれた縁はどうにか大切にしていきたい。自分に力を貸してください
、と口に出さずとも生意気な口調で仏様にお祈りした。

数日経った後のこと、夕食の席で母親がゆきは周りの人が冷たいって言うけど、周りの人に冷たくしてたのはあんたじゃないの?と言ってきた。自分はハッとした。目の前に闇の帷が降りた気がした。周りの人がただ、一点でしか、自分のことを見てないと言うけれど、ゆきも周りの人のこと一点でしか見てないじゃん、と母親は畳み掛けた。僕は、自分から離れていった何人かの顔を思い浮かべた。そういえば、少し前まで、あれだけ自分を慕っていた人が突然離れるのにはそれなりの理由があるよな、と自分の向こう見ずな行動による過ちを思った。自分は突然言いようもない寂しさに打たれ、泣きたくなった。同じように悲しみの表情をした友人を思った。

母親は先日の神社へのお参りで、お札を買って棚に祀っていた。自分は、母親が食卓を去った後、一人で深く神棚に頭を下げた。


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