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エッセイ|自分ってどこまでが自分?〜自己と他者の境界にある身体〜

家が自分の体のように感じる時がある。

美術大学の授業で、作品を作るにあたってのアイデアを発表する時間に、同じ学年のとある学生が言った言葉だ。

窓から見える景色を遮ることができるカーテンは瞼のよう。時計の針が時を刻む音は、心音のよう。お風呂では、色んなことを忘れられるから、記憶を司る脳のように感じるらしい。

これを聞いて思った。自分ってどこまでが自分なのだろう。

哲学者のデカルトは、『方法序説』の中で”我思う故に我あり”という有名な言葉を残した。これは、人が認識している全てのことが幻であったとしても、それを認識している自分だけは確かに存在するということだったと思う。

ということは、自分とは、ものを見たり、考えたりする意識のことなのか?体は、その意識の入れ物に過ぎないということ?

そんなことを大学から帰る電車の座席でぼんやりと考えていた。

でも、体にだって意識が宿っているような気がする。お昼ご飯を食べたあとの授業は、どんなに楽しみにしていたものだったとしても、眠くなってまともに聞けない。頭の中の意識が眠くないと言っても、体は眠いよ…と言っている。

もっと広く考えてみると、服だって自分なのかもしれない。知らない人に自分の服を触られたらちょっとイヤだし、その日の気分によって選ぶ服だって違う。これは、服と自分が密接な関係にあるからだと思う。

そう思うと、家も自分かもな。

そういえば、最近、自分の体の中を意識することってないな、と思い、目を瞑って体の中に意識を向けてみた。

ん?何も感じないな。

目を瞑って体の中に意識を集中してみたら、自分の心臓の音でも聞こえてくるのかしら、もしかしたら、血液の流れとか感じれるかも!って思ったけれど、血液の流れは言うまでもなく、心臓の音すら聞こえなかった。

聞こえてくるのは、電車が揺れる音、次の駅がどこかを伝える車内アナウンス、靴が床と擦れ合う音、吊り革が軋む音、のような自分の体の外にあるものだけだ。

なんだ、つまらないな、と思って、リュックを抱いて頬杖をついた。

すると、秋の冷たい空気で冷えた自分の頬がじんわりと温かくなった。

ああ、これは!

血液だ!

手の温もりで、体の中の血液の存在がはっきりと形を現してきたのだ。

なんだか、目で見た時より、生々しく実感をともなって血液に近づいた気がした。目に見えないけれど、確かにそこにあるもの、またその存在を感じられることってあるんだな、と思った。



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