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小説|カッコウの孵化

 花瓶がフローリングの上で激しい音を立てて割れた。大きくて、骨張ってはいるが、透明で赤みが刺した健康的な右手に濃い血がゆっくり伝って落ちる。この粘っこい血液も一滴ずつフローリングの上に落ちていき、小さなポンドを作った。それは床の溝を伝って、まるでこの部屋が奇妙な生き物として動き出すように部屋を埋め尽くそうとしていた。

 翠玉の手は別段普段と変わることもなく、時々びくん、びくんと脈打つだけで、それは翠玉が今の状況に恐怖を感じているからというよりも、ただ単純に生理現象が引き起こす、痙攣としか見えなかった。

 翠玉の前には、四十代くらいの女が両足を左側に流して、両手で上半身を支えながら、床に座り込んでいた。女は、友永祥子という。岡山から上京してきて、もう二十年ほど経った。地元の公立高校を卒業した後、「女は変に勉強して小賢しくなるより、早めに社会に出て愛嬌を身につけた方がいい」と説得してきた昭和生まれの父親に、特に逆らうこともなく家を出て、東京の清掃会社に内定をもらった。毎日忙しく家を出て五時に出勤し、まだ営業が始まる前の東京駅で清掃をした。二十代の頃は人並みに恋愛を経験して、三人目の彼氏と同棲をしているときに子供ができて、そのまま結婚ということになった。お洒落に執着がなくなってきたのは、子供が生まれてからだ。日々の子育てに追われて忙しく毎日を過ごしているうちに、気づけばお腹はたるんで、太ももやふくらはぎはぱんぱんに張ってきて、髪は後ろで雑に縛って、そこにはところどころに白髪が混じっていた。子供の名前を翠玉、としたのは、自分が名前をつけることに悩んでいるとき、夫が「そんなに悩んでいるなら祥子の好きな色とか、街とか、そんなところから取ればいいんじゃないの?」といかにも人が良さそうな笑みを浮かべ助言してくれるのを聞いて、そのときふと窓を見たら、早朝の淡い光が窓を翠玉色に染めていたからだ。

祥子にとって翠玉は、宝物だった。分娩台の上で、丸く光る白熱灯に照らされ、冷たい汗を大量に流して痛みに耐え、やっと出てきた宝物だった。薄く繊細な皮膚の赤子を柔らかいタオルで包み、両手に抱えてあやしていると夫がそばに寄ってきた。夫はベッドの手すりに手を置いて祥子を見上げ、甘い口調で「祥子、お疲れさま。頑張ったな。君の苦しそうな顔を見ていたら本当に耐えられなくなってしまいそうだったよ。けれど無事でよかった。君のその優しい笑顔が大好きだよ。」

祥子は、地元で仲が良く、同じ時期に上京してきた女の子に誘われた合コンで、この優しくて物腰の柔らかな夫に出会った。会話を重ねていくうちに、なんとなく居心地の良さを感じ始めた。数回デートを経たのち、少し値段の張るレストランで食事をしていて、背広が妙にしっくりこない彼からぎこちなく告白され、付き合うことになった。告白されたとき祥子は、ただ「はい」とだけ言った。それは、ため息に近いものだった。自分でも無意識のうちに口から出た言葉、そんな感じだった。翔子は、夫が自分を崇拝していることにいつも冷淡な気持ちでいた。この人は、私の言うことならなんでも聞いてくれる。けれど、この人は、私以外の判断基準はなにも持っていない。弱い人。そう思っていた。けれど、二人でいる時は居心地が良かったし、自分の自尊心も満たされていくので、この関係を壊そうとは思わなかった。私はこの人が好きなのだ、と自分に言い聞かせ、春の日には、隅田川の桜を見に行って、木漏れ日が穏やかに二人の上に降り注ぐとき、「幸せね」などと言って、彼の肩に頭をもたせかけるのだった。

翔子は、生まれたばかりの子供を前にしてさえ、自分に甘えてくる夫に対して、呆れてしまった。「あなた、今は私じゃなくてこの子のことを見なさいよ。」顔には笑顔を作りながらも、口元が引き攣るのを感じた。「もちろん、この子のことは見ているよ。ただ、僕達に子供が出来ようとなんだろうと、僕の最愛の人は君だと言うことさ。」夫の顔がまただらしなく緩んだ。「あなたは本当に・・」そこまで言って、はっと我に帰った。くだらない人ね、と言う言葉が舌の先まで出かかっていた。夫婦関係をあくまでも円満に保ちたかった翔子は寸でのところで言葉を飲み込んだ。

つづく

 

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