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古くて新しい伊勢の神宮

先日、伊勢の神宮に行ってきました。
一生に一度はお伊勢参りと言われるように、全国神宮の総本山であり、日本神話にも登場する天照大神が祀られる日本最高峰の神宮です。
(正式名称は伊勢神宮ではなく「神宮」、だから伊勢の神宮)

観光地の紹介というよりは、そこで私が感じたことや心の中に残っていることをここに残しておこうと思います。

まず、行って良かったと思ってます。伊勢神宮のある三重県伊勢市は、県内に空港がなく、私は関西国際空港から電車を乗り継いで向かいました。
正直、私の住む場所からは時間がかかるし、面倒臭いと思っていました。
しかし、この道中が私の気持ちを高める結果となりました。

昼前に家を出て、着いたのは19時頃

この若干の行きづらさも含めて、伊勢ないし伊勢神宮は観光客に媚びていない。
外宮も内宮どちらも参拝ルートには維持管理面(雑草が生えづらいとか、雨が降っても水捌けがいいとか)から砂利が敷き詰められているし、石づくりの階段もある。
また、宮内は複数の神が祀られているけど、案内標識などは最小限しかなく、観光客に優しいとは言えない。
ただ、参拝客であれば下調べはするだろうし、ある程度予備知識を持ったうえで参拝に来ると思うので問題はない。
来るものは拒まないが、誰にでもわかるような価値は提供してくれないし、受け身の楽しさはないかもしれない。

正宮は階段の下までが撮影可能

私はある程度下調べはしたし、参拝までの道のりが一層気持ちを高めてくれたと思っている。
そしてそして単に私の知識不足なのかもしれないが、ここまできて神を祀る御正殿までは近づくことはできないし、見ることはできない。これは当たり前のことでしょうか。
その一角が遠くから隙間を縫うように見えるだけという神秘に満ちた雰囲気が堪らないと感じてしまいました。

神宮の外側は、古くから参拝客をもてなす宿や食べ物屋、土産屋が軒を連ねていて、賑やかで活気がある。
しかし、宮内については予備知識なしでは何も感じずに終わってしまい、ただなんとなくありがたい所に来た。という思い出や記念で終わってしまうはず。
かといって、私は予備知識などがなくても楽しめるような観光地がいいとも思っていない。
それは、ある意味押し付けられた楽しみ方だったり、ここが楽しむポイント!といった計算に当てはめられた思い出にしかならない気がしています。
それよりも、余白があって訪れる人が考え、変化するような体験や場所の方が自分にとってもプラスになるような気がしています。
もちろん、前者を否定しているわけではありません。楽しみの一つという考えです。

外宮は左側通行、内宮は右側、鳥居を潜る際は一礼を忘れずに

そんなことを考えていると、旅行の最高潮は目的を達成した瞬間ではなく、そこに至る過程なんじゃないかと思ってしまいます。
実際私はお参りできた瞬間よりも長旅でいよいよお参りができると天照大神を祀る御正殿に近づいた時だった気がしています。

伊勢神宮は古さを感じさせない。
式年遷宮といって、20年に一度補修ではなく社殿を建て替えているので確かに新しいとはいえるんですが、それだけではなくそこには何か強い意志のようなものを感じられる。これらを後世に繋いでいこうとする強い意志だ。
その意思によって、大切な部分は変えず、それ以外は時代の変化を捉えて変えていっても構わないというスタンスだろうか。
歴史を刻んできた時間的な価値は計り知れないけれど、式年遷宮を行ってるからだろうか、過去にしがみつくような、時代のせいにするような言い訳じみた雰囲気は一切無い。
今なを変化し成長し続けている伊勢の神宮。恐るべし。
それが古くて新しいと感じる理由なのかもしれない。

赤福本店 何個でも食べられる。

少し長くなったので、続きは次回にしようと思います。
今日もいい一日です。




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