幸福否定の研究-15 【幸福否定の発見と心理療法確立までの経緯-8】

*この記事は2012年~2013年にかけて、ウェブスペース En-Sophに掲載された記事の転載です。

【幸福否定の研究とは?】
勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究の紹介

前回は、小坂療法の特徴である

「反応を追いかける」
「症状の直前の記憶が消えている出来事を探る」

という方法論によって、分裂病の原因論の理論的な側面の発展の経過を書きました。小坂医師のライバル理論までの経過と、ライバル理論では全ての説明がつくわけではない、とした、その後の笠原氏の試行錯誤の段階をまとめましたが、今回もその続きを書きたいと思います。

尚、今回で【幸福否定】に辿りつくまで書きすすめる予定でしたが、長さの関係でその手前までとなりました。引用が多くなっていますが、思考過程を省略することができないので、ご理解頂ければ幸いです。

■ ライバル理論で説明できない例

他の心因性疾患と違って分裂病の場合には、初期の小坂が述べているように、現金や物品を落としたことによって、あるいは小さなけがをしたことによって再発する例がある。それが単なる推定でないことは、本人がその記憶を消しており。それを思い出させると症状が瞬時に消えることでわかる。一方、小坂が後に唱えたライバル理論では、分裂病にはすべてライバルが関係している事になっている。しかし、物を落としたり、けがをしたりして再発した例の場合、そこに、隠れたライバルが関与していると考えるのは、かなり難しいのではなかろうか。(『幸福否定の構造』 P74 以下、引用すべて同書 )(注1)

一方、ライバルとの関係を探る中で、私は、ライバルが本人の自宅に来た時の状況に注目するようになっていった。ライバルと本人の母親は、自宅の中で一緒にいたはずである。母親が家の中にいる限り、ふたりは少なくともどこかで対面していなければならない。にもかかわらず、その場面の記憶がなぜか完全に消えてしまっている人たちが、きわめて多かったのである。
それでいながら、同じ頃に、ふつうの友人が自宅に来た時の記憶は、母親と対面している場合も含めて、鮮明に残っていた。また、ライバルと母親が、自宅の中で一緒にいる場面の記憶を蘇らせようとすると、ほぼ例外なく、強い反応が起こった。その点に焦点を絞って検討を重ねた結果、ライバルがいるいないにかかわらず、自宅の中の記憶そのものがきわめて不鮮明な人たちの多いことが徐々に明らかになってきた。極端な場合は、現在住んでいる自宅ですら、その中の記憶がほとんどなく、詳細な間取りどころか、トイレや浴室の位置などもわからなかった。(同上 P83 )

同様の方法で、一部の患者が自宅においての食事の場面(だれがどの席か)、や内容(パンとご飯のどちらが主食かわからない、など)を覚えていないことがあることがわかり、また、自分の家族、特に母親の顔が思い出せない、思い出しにくい人たちが約半数に昇ることがわかってきた。
(同上 P84 筆者要約 )

※ 【顔】に関しては自分でも簡単にできるので、興味のある方は同じ事をやってみて下さい。(筆者)

これらの記憶やイメージを意識に昇らせようとすると、多くの場合、眠気を中心に、かなり強い反応が出現した。私は、ライバルとの関係よりも、家族、特に母親との関係を次第に重視するようになった。その結果、ライバルの位置づけも、正反対の方向に変わってきた。本当は自分にとって親友である相手を意識の上では、その対極にある競争相手へと変容させてしまっているのではないか、と考えるようになったのである。ライバルと本人の母親が自宅の中で一緒にいる場面の記憶がないということは、すなわち、自宅に来てくれた親友を母親が迎えた場面の記憶がない、ということであった。
そして、母子関係そのものについても、小坂とは正反対の方向から見るようになってきた。さらには、反応や症状についても、これまでのいわば常識的な観点から離れて、独自の視点から眺めるようになったのである。
(同上 P84~85)

■ 【不幸志願】について

不幸志願という言葉を使うようになったのは、分裂病以外の心因性疾患を対象とするようになって六年弱が経過した、一九八三年の初頭であった。心因性疾患を持つ人たちは、いろいろな理屈をつけながら、幸福を巧妙に避けたり、不幸を無意識のうちに待ち望んだり、作り出したりする。そのため、本人にとって重要な存在である母親に対しては、どうしても、かなり矛盾した態度を取ることになる。つまり、母子関係がまちがいなく成立しているからこそ、子どもばかりか母親も、それを「すねて」否定してしまうのである。その典型が精神分裂病を持つ人々なのであった。

母親にかわいがられた記憶がきわめて乏しいか、ほとんどない人たちは、周知のようにたくさんいる。(中略)そこで、そのような記憶のない人たちに、幼児の自分が母親に抱かれている場面を「空想」させてみた。自分が母親に抱かれている場面のイメージを、外から見てではなく、抱かれているはずの自分の視点で描くのである。すると、ごく一部の例外を除いて、そのイメージを描くのが非常に難しく、しかも強い反応を伴うことがわかってきた。こうした経験を踏まえて、この頃から、空想という方法を次第に治療の根幹と位置づけるようになった。

また、実際に母親が亡くなっている場合、母親の臨終の記憶がない人たちが多いことにヒントを得て、母親が健在な人たちにも、母親の臨終の場面を空想させてみた。その結果ほとんどの人たちにとって、それがきわめて難しいことも明らかになった。また、実際に母親が死亡している場合、それほどの年月が経っているわけではないのに、葬儀の場面ば かりか、葬儀が執り行われた場所の記憶すら完全に消えている例もあった。そのうち、そのような例に共通して、最も強く消えているのは、母親の死に際して起こる悲しみという感情であることがわかってきた。涙を流した記憶はあっても、それは自分か母親のどちらかがかわいそうだったためであり、 悲しかったわけではないと、異口同音に主張したのである。それは母親に対する愛情を否定しているに他ならなかった。

この当時の私は、心因性疾患の人たちは多かれ少なかれ不幸志願を持ち、その結果として「すねている」と考えていた。
しかし、症状出現の原因については、まだ従来的な考え方から抜け出していなかった。症状については、自分で作りだしたものと見ていたものの、母親に対する逆うらみと関連づけて考えていたのであ る。この頃の私は、復讐理論という陥穽にはまっていたとも言える。振り返ってみると奇妙に感じられるが、不幸志願という考えかたで統一されていたわけではなく、理論的には未だに混沌とした状況であった。
(同上 P86~88)

この【不幸志願】に関する以下の部分が、笠原氏が小坂理論から完全に脱却した重要な部分となります。
(注:太字強調は筆者による)

逆うらみは、言うまでもなく思い込みにすぎないが、そうであったとしても、少なくとも意識下では幼少期から連綿と続いているものと、それまでの私は、当然のように考えていた。

ところが、実際にはそうではな く、うれしいことがあったり、母親の愛情や他人の好意がわかりかけた時に、そのつど、幼少期の出来事を自分の中で引き合いに出して拵える、いわば一時的な作りものではないか、と考えるようになったのである。

ただし、一時的と言っても、無意識でうれしさが続く限り続く。そして自分の中でうらみと結びつけている症状を、おそらく無意識的な自己暗示によって作りあげ、それにより、そうした愛情や好意を否定しようとするのではないか。それが事実であれば、治療とし ては、問題と思しきものを、過去に遡って解決する必要はなく、現時点で起こった出来事のみを、いわば代表例として扱うだけでよいことになる。この時、PTSD理論の枠組みをー換言すれば、行動主義心理学の精神分析という対極的思想が、呉越同舟的に基盤としてきたものをー乗り越えたと言える。

この時点で、私の治療論は、小坂理論とほぼ決別し、独自の道を歩むようになった。そして、その頃にはあまり意識していなかったが、それまでの常識的な人間観から、非常識的な人間観へと大きく飛躍したのであった。不幸志願ないしは幸福否定は、育てられかたや過去の体験などとは直接の因果関係はなく、人類全体に普遍的な属性だとする考えかたに、もう一歩で辿り着くところまできたのである。
(同上 P91~92)

経過を簡単にまとめると、以下のようなものになります。

「ライバルが本人(患者)の自宅に来た状況に注目するようになる。ライバルと母親が一緒にいる場面の記憶が消えている患者が多い。また、自宅の中そのものの記憶が不鮮明な患者が多い」

「自宅の中の状況を探ると、患者の約半数が母親の顔を思い出せない。」

「ライバルよりも、母親との関係を重視するようになる。」

「母親にかわいがられた記憶のない人達に、母親にかわいがられている場面を【空想】させてみると、一部を除いて患者に強い反応が起こった。次第に、【空想】が治療の根幹となる。」

「もっとも強い反応が起こるのは【母親の死に際して起こる悲しみ】ということがわかった。しかし、この時期は患者が【すねている】と考えていたため、不幸志願という言葉を使う一方、患者の逆恨み(復讐)という考えもあった(違う理論が同居した状態)」

「逆うらみは幼少期から連綿と続いているものではなく、母親の愛情がわかりかける度に出るという事がわかってきた。逆うらみと結びつけている症状を、うれしさを否定するためにつくりあげている一時的なものではないかと考えるようになった。過去(幼少期)に遡って解決することが不要となった。」

「過去の精神的な打撃に原因を求める、PTSD理論を乗り越えた。小坂医師の分裂病の原因論とも決別し、幸福否定に辿りつく一歩手前まできた。(注2)」

ここで私自身の経験と比較してみたいと思います。
笠原氏の理論を咀嚼する以前は、治療院で患者さんを観察した結果、以下の二点が非常に目立つことから、【病気は自分でつくっている】、【病気のままでいたほうが都合が良い患者さんがいる】と考えていました

・何かが良くなると、何かが悪くなる。
・良くなりはじめると、途端に治療を中断し、悪化すると再び来院する事を繰り返す。

私はこの時、【疾病利得(病気のままのほうが得をする)】と、患者の自虐性を考えていました。その代表が人格障害の患者さんでした。漠然と【幸福否定】【不幸志願】に近い考え方をしていたのですが、あくまで対象は一部の患者であり、一つ一つの症状の原因を確認するという手順を踏んではいませんでした。

治療法としては笠原氏の心理療法をそのまま行えば良いので、小坂療法からの経緯を重要視していませんでしたが、最近は、がんなどの、どこまで心が関わっているかがわかり辛い疾患に応用したり、病気以外の事への応用が増えたため、この方法論や、紆余曲折の過程を理解することが非常に重要なことだと感じています。

また、私の場合は観察事実だけで解決方法を見つけるという事にはならないのですが、小坂医師、笠原氏と科学的な手続きを正確に行う事により、解決に向かう非常に大きな成果を得ている事がわかります。仮に先行者が解決できなくても、後に続く者が発展させることができるので、科学的な方法論がいかに重要かという事も痛感させられます。この方法論を徹底すれば、他分野への応用も利く大きな可能性を秘めている一方、だからこそ実行が極めて難しい、という事もわかってきました。

私自身が、【一部の病気は自分でつくっている】と考えだしたのが2003年頃なので、治療家になってから約3年しかかかっていないのに、科学的な方法論を通じて確認する事に約10年を費やしても完全ではない、という事実も難易度の高さを物語っていると思います。

さて、少し話が逸れましたが、次回はいよいよ【心因性の症状全般が幸福否定である】という、【幸福否定】の理論が完成するまでの経過を書きたいと思います。

(つづく)

注1
私も、統合失調症近辺の疾患の患者さんの心理療法で、小さなトラブルが症状の引き金になっていることは何度も経験しています。重度な疾患に限らず、仕事であれ、私生活であれ突発的なトラブルに対応できない患者さんは、一人でパソコンを使用中に症状を起こす事もあります。重度の場合は、英語表示の広告を押してしまった、勝手にアダルトサイトに飛んでしまった、アカウントが使えなくなった、画面がフリーズした、などが引き金になることもあります。この場合、“臨機応変に対応する”という事ができない患者さんが多いのですが、職場では小さなトラブルに対応できず、家では対応できるのであれば、“臨機応変”に対する幸福否定よりも、仕事に対する幸福否定を考えます。

注2
笠原氏は、疾患の原因、人間観の解釈は小坂医師の理論と決別しましたが、治療の方法論は小坂氏の方法を踏襲しています。

文:ファミリー矯正院 心理療法室 / 渡辺 俊介

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