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AIだから違うと言うのはどうなのだろうか?

 大昔から西洋哲学の文脈で、「人と動物」とか「人と機械」の違いを定義する試みが行われている。

 有名なのがプラトンが「人は二足歩行をする体毛のない動物だ」と言ったら、ディオゲネスが毛を毟った鶏を持って来たって話だ。

 他にも、道具を使うとか、道具を作るとか言うのがあるが、近年の研究ではカラスが瓶の奥のものを取るとき、丁度良い長さに木の棒を折って使ったと言うものがあった。
 言語コミュニケーションをする生き物だと言う説には、鳥の鳴き声の研究で想像よりもずっと豊かなコミュニケーションを行っていた事が判明している。
 遊ぶ生き物だと言われれば、カラスが滑り台で遊ぶと言う映像はあちこちで撮影されている。

 じゃぁ、これを以て鳥は人か? とはならない。
 ならないけれど、数々の定義が実に曖昧で、絶対的でも確たる根拠もないことが分かる。

 別段哲学を馬鹿にするつもりはないが、多くの実験と観察と言う努力が、頭だけで考え口先で紡がれたそれらしい言葉よりも、確実だと言う事だ。

 動物の同性愛的行為の観測事実を無視して、「同性愛は不自然な行為だ」と言ってしまうのは二重の意味で唾棄すべき事だろう。
 自然の誤謬よろしく、自然が常に正しい訳ではない。
 だからこそ、昨今のAIに関しても「人間じゃないから」とか「自然じゃないから」と言う発想が馬鹿馬鹿しく見える。

 人間であることは世界に存在が許されていると言うことを意味しないのに、人間ではないから存在が許されないと言うのは、冷静に考えて傲慢な考え方だ。
 人間中心主義的である。

 何事も擬人化して考える癖のある人が居るけれど、それこそが人間の価値観が正しくあるべき姿だと信じている。
 しかし、それとは無関係に世界には法則があり、そしてそれらの無数の法則が複雑に絡まり合い、一つの結果を生んでいる。
 人間が正しいと判断したかどうかなどは関係ない。
 そして、多くの場合人間の「正しい」は「都合のよい」以上の意味を持たず、その上で、人間の生存を第一(或いは自分の生存を第一)にするならばそれも良いだろう。

 だけれども、「自分の考えるあるべき自然」と言う空想上の正しさに取り憑かれるのが言って見れば自然の誤謬だ。
 自然が一番と言いつつ、結局自分の極めて人間的な思考を押し付けてくると言う、極めて人間中心的な考えである。

 そう言う意味で、AIに対する脅威とは、「自分にとって都合の悪い」以上の意味はなく。
 その都合が社会が吸収すべきなのか、それとも「社会にとって都合のいい」を追究すべきなのかと言う戦いだ。

 それはもはや、自然と反自然との闘争ではなくて、個人と社会の闘争に他ならない。
 もっと言えば、個人の利益を社会全体に追わせるのか、社会の利益によって個人の不利益をどう補填するのかと言う、"ゲーム"なのだ。

 今の所人間は負け続けている。
 神の領域が少しずつ減っていって、隙間にしか存在しなくなったのと同様に、人間が人間として威勢を張れる領域も減っていくのだろう。

※挿絵はDALL·Eを用いています。

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