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社会問題化の時代の終わり

 なんかこうやたら見かける文言に、「LGBTの人は○%、あなたの隣にいるかも知れない」みたいなのあるけど、これって「マイノリティじゃないから気をつけよう」という考えで、裏を返せば、セクシュアルマイノリティとは別だと言う事なんだよなぁと。

 良きにせよ悪きにせよ、社会問題化というのは何かと武器になる。
 民族主義でも雇用機会でも、こうした社会問題化が時代を作ってきたのは確かだ。

 多くの場合、それは人々の平等とか豊かさとかに直結していて、それは人類の偉大なる功績と言ってもいいだろう。
 だけれど、それもこの頃は限界が見えてきたと言う気もしている。

 限界が見えてきたと言うのは、もう新たな社会問題化はすべきではないと言う話ではない。
 世の中には未だに様々な社会問題化すべきような差別や不平等は存在する。例えば非正規雇用とか所謂"金のない不細工なオッサン"だとか。

 どの辺が限界だと言えば、女性運動と言いつつ、女性の仕事を奪うような活動をして喜んでいたり、ルッキズムに抗議している人が、チー牛という剥き出しのルッキズムで相手を殴っていたり、日本国内にあるハングルを消せとか、(米兵がレイプを起こした時にあんなに大盛り上がりしたのに)、(国内に二千人程度住まっている)ある人種の人が盛大にやらかしても何も言わないとか。自分がちょっと嫌だと思う社会のルールを何でもかんでもハラスメントと言ってみたり。

 今までの社会問題と言うものが、理性的で知性的であったのに、単に殴りたい相手を殴る便利な道具に墜ちてしまったのだ。
 それを証拠に、本質的に困っている人を救いたい訳じゃないのに、それを利用しようと言う人が大騒ぎを起こすとか、反ポルノ運動家が実は児童買春をやっていたとか、そんな事ばかりが起きているではないか。

 それに、結局のところ、社会問題化と言うのは人口の何パーセントだかを巻き込まなければならないわけで、結局マイノリティの中のマイノリティは、そうした声を拾われることもないのだ。

 じゃぁ、どうするんだって言ったら、もう、そんなものは諦めて、静かに暮らすしかないんだよ。
 諦めてしまって、自分がそう言うモノだと自覚した上で、自分を社会に順応させる努力をするしかない。

 僕なんか僕の苦しみを誰も理解しないのだと悟ってからの方が、よっぽど気持ちが楽になったものだから。

 そう言うのを奴隷化と言うならご勝手にとしか言えない。
 だって貴方、別に僕のために戦ってくれる訳ないでしょ?
 何だかんだと理由を付けて、僕の事を罵倒するだけじゃない。
 努力が足りないとか、苦労しないまま生きてきたとか、僕の人生の何を知って、なんで最上段から、なんで自分がジャッジする立場だと思い込んでそんなことが言えるんだ?

 でも、そんなのを一々抗議しても誰も助けてくれないし、誰も可哀想とすら思ってくれない。
 誰にも理解されないなら、その苦しみは自分の内に秘めるしかないんだよ。

 卵が落ちて割れることに憤慨したところで、世界の法則が変わる訳ではない。
 そんなものだよ。
 世の中、そうやって受け入れていくしかないんだよ。

※挿絵はDALL·Eを用いています。

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