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「神の福音を宣べ伝えて」

マルコ1章14~20節

降誕節第4主日 2022.1.16
 2021年のクリスマスよリマルコ福音書を取り上げている。その1章1節は「神の子イエス。キリストの福音の初め」で始まる。それはこの書物の題名であり主題である。これは「イエス。キリストの福音」の物語だと告げている。1~13節は序論であり、この14節から本論に入る。

 「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え(14節)」ている。イエスはガリラヤヘ帰って行く。イエスの宣教活動の中心はガリラヤであった。イエスはガ比ヤ西湖畔のティベリウスやカフェルナウムで活動をしていた。ガヅラヤはどのような地であったか?ダビデによるイスラエル統一王国の後、やがて北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂し南北王朝時代となる。ガリラヤは北イスラエル王国の北方にあった。そしてダビデ王の流れをくむ南ユダ王国の中心はエルサレムである。エルサレムから見れば、ガリラヤはサマリアを経てさらに北方に位置する。南ユダの人々や預言者によれば、北の果てのガリラヤは「異邦人のガリラヤ(イザヤ8章23節)」と呼ばれていた。しかしこの異邦人の国ガリラヤから「福音(良い知らせ)」が到来するのである。

 イエスは「神の福音を宣べ伝え」る。「神の福音」とは「神の国」の「福音」である。イエスは言う「時は満ち、神の国は近づいた(15節)」と。ここにイエスの福音の宣教の内容が要約されている。この「近づいた」は完了形継続用法である。神の国は近づきつつある。しかしまだ来てはいない。だから備えをする。それが「悔い改めて福音を信じなさい(15節)」である。「神の国は近づいた」。この言葉の主語は「神の国」である。それを知った時、人間の側はそれにどう答えるのか?どのような生き方をするのか?人間の側の応答が問われる。それが「晦い改めて福音を信じる」ことである。「悔い改め」とは立ち返ること、生き方が変わることである。

 「神の国の福音」を聞いた人間はその生き方が変わる。これを物語にしたのが16節からの「四人の漁師を弟子にする」物語である。「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った(16~17節)」。今まで漁師であった二人に「立ち返り(メタノイア)」が起こる。彼らはどう変わったのか?彼らは魚をとる漁師から、「人間をとる漁師」に変わり、イエスに従う者となる。

 「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になると、すぐに彼らお呼びになった。この2人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に船に残して、イエスの後について行つた(19~20節)」。ここでの「従った」と「ついていく」は同じ言葉である「後に続く(follow after)」という意味である。今までイを知らなかった者たちが、神の国は近づいた」というイエスの言葉を聞き、メタノイアが起こる。これからはイエスのあとについていく、イエスに従う生き方に変わっていく。マルコは四人の漁師の「立ち返り、悔い改め」を物語にしたのである。聖書は、「神の福音」を聞いた人間はどうなるのか、それを描いている。

 コリントの信徒への手紙11章1節にパウロの言葉がある。「私がキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい」。「キリストに倣う」は「まねぶ」であり、imitateである。「倣う」、「学ぶ」、「ついていく」、「従う」は一つのことを示している。「私がキリストに従う」、それはパウロの教会で使われていた文言であった。マルコはそれを物語にした。イエスに従う者たちがイエスの弟子である。イエスの弟子たちに従っていく者たちがキリスト者である、さらにその者に従うキリスト者がいる。そのようにキリストに従う者たちの集まりを「エクレシア(集められたもの」と呼んだ。日本ではそれを「教会」と訳した。教会は人の集まり、集められたものの場である。教会は建物、教会堂ではない、集められた者たちの集まり、イエスに従うイエスの弟子たち、その者たちが交わりを作っていく、そのような場である。

 愛真通信に犬養先生が愛真創立記念日で語った講演が載っている。先程のコリント11章1節の言葉を取り上げ、高橋二郎先生と言葉と出会いを通して「メタノイアの起こった生き方」について語っている。内村鑑三に始まる無教会の流れがある。それは日本のキリスト教の一番良いものとなってきた。それは「聖書を学ぶ」ことである。無教会の人々は聖書を読み、聖書を学ぶ。教職はなく、共に聖書を学ぶ。中心に聖書がある。聖書を読む時にメタノイアが起こる。「聖書を学ぶ」、その時、一人一人に悔い改めが起こる。それが無教会の精神である。そこからキリスト教の最良度のものが出てくる。聖書を読む、そのことを私たちも学ぶべきである。

<黙想>
 福音は「異邦人のガリラヤ」から到来する。中心でなく辺境からやってくる。今、我らの辺境はどこか?イエスは神の国の福音を宣べる。人間が支配するこの世界の絶望の中に、「神のみが王」である国が自ら近づくという。この福音を聞いたものは、生き方を変えよ、道備えをせよという。イエスに倣い、イエスに学び、イエスに従う者となれ。聖書を読み、聖書に学び、ここに集まれ。

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