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「権威ある者として」

マルコ1章21~28節


降臨節第5主日 2022.1.23

 21節から28節は、汚れた霊に取り憑かれた男の物語。「一行はカファルナウムに着いた(21節)」。物語の舞台はカファルナウムである。紀元30頃にイエスの十字架があり、マルコによる福音書の成立は紀元60~70年頃。ではこの2つの出来事の間に何があつたのか?イエスの死後、ガリラヤを中心に、イエスに関しての言い伝えが残つていた。マルコはその口伝や伝承を集め、一つの物語にした。
 「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ばしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ』。イエスが『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、汚れた霊はその人に痙攣を起こさせ、大声を上げて出て行つた(24~26節)」。
 悪霊を追い出すイエスが描かれる。悪霊とは何か?悪霊の逆が神の霊、聖霊である。霊は働き、力であるが、目には見えない。目には見えないが、そこで働く力を古代人は霊と呼んだ。神のイ動く力を聖霊という。神の霊の働きは、繋ぐこと、それは関わる働きである。私たちを集める力、そこで働く力、それが聖霊である。神の霊は繁げる力、関わらせる力である。その反対が汚れた霊である。
 男は叫ぶ「ナザレのイエス、かまわないでくれ(24節)」と。これが汚れた霊の特徴である。神の霊は関わらせる。しかし汚れた霊は関わらない。聖霊は繋ぐ働きをする。しかし悪霊はバラバラにする。悪霊は「かまわないでくれ」と言う。しかし実は悪霊こそがかまって欲しい、関わつて欲しいのだ。「我々を滅ばしに来たのか」と男は叫ぶ。そうイエスは関わらない働き、つまり関係をバラバラにする力を滅ばしに来たのである。イエスのいるところに繁がりが生まれ、関わりが出てくる。そこでは悪霊が追い出されていくのである。男は言う「正体はわかっている。神の聖者だ(24節)」と。
 「聖者」と同じ言葉はルカ1章35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」にある。「聖なる者」、「聖者」と同じ意味が「神の子」である。男はイエスのことを「神の聖者」、すなわち「神の子」と告白したのである。誰が最初にイエスを「神の子」と告白したか?それは汚れた霊である。弟子たちではない!汚れた霊はイエスのことをよく知っている。「神の子」を知っている。関わらない霊である悪霊が、イエスを「神の子」と告白するのである。その時、汚れた霊はいなくなる。物語的には、それを「汚れた霊」は「出ていく=(追い出される)」と表現される。
 イエスが来て、人と関わる時、悪霊は追い出されている。そこに新しい関係が生まれている。イエスを「神の子」と告白する時、イエスはそこにいてくださる。そこに新しい関わりが生まれ、汚れた霊は追い出されている。イエスの働きとは何か?イエスは悪霊を叱る。「黙れ。この人から出て行け(25節)」と。イエスは「関わらない者」に関わる。この後も「悪霊を追い出す」という言葉が繰りされる。「イエスはいろいろな病気にかかつている大勢の人たちを癒し、また、また多くの悪霊を追い出して(33節)」、「そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された(39節)」。しかしこれを悪魔祓いと理角罪してはならない。物語が本当に語りたいことは何か?それは関わらないこと、つまり「無関係」が追い出されて、新しい関わりが始まつたということである。ここには「かまわない」という言葉はない。新しい関係に立ち返りが新しい関わりを生む。これが汚れた霊を追い出した物語が伝えたいことである。
 22節「人々はその教えに非常に驚いた」。27節「人々は皆驚いて論 じあった」。​​「驚いた」が2回繰り返される。人々はイエスに驚いた。イエスの言葉に驚き、イエスの新しい関係に驚いた。驚くとは何か?驚きは今まで知らなかった新しいものに出会った時に起こる。その「驚く」と一体の言葉がある。22節「権威あるものとして」、27節「権威ある新しい教え」の「権威ある」である。新しい教えをマルコは「権威ある」と言い表している。
 イエスの権威はどこから来たのか?なぜ権威があるのか?権力と権威はどう違うのか?「権力」という言葉は、マルコ10章42節で「異邦人の間では、支配者と見なされている/人々が民を支配しレ、偉い人たちが権力をふるつている」で用いられている。ここでは権威と権力が明確に使い分けられている。すなわち権力は人を支配する人間の力と理解されている。その力の出所は人間である。一方、権威は人間でチょ`い所からの力、神から与えられる力である。権威は神の力、神の霊の力、神からの働きである。イエスは聖霊に導かれていた。だからイエスの働きは新しく、イエスの言葉は驚きをもたらす。
 そしてイエスの教えは「律法学者のようではな(22節)」い。律法学者は神の言葉を解釈する人。解釈はあってもそこには驚きも新しさもない。イエスの教えには権威がある。それはイエスが神の霊に導かれていたから。だからイエスを「神の子」と呼ぶ、イエスを見ると神の働きが見える。だからイエスを「神の子」と告白する。私たちは人間だけだと、悪霊に取りつかれてバラバラになる。イエスに出会うなら、イエスの回りに関わりが生まれ、新しい驚きが起こる。イエスのいるところに悔い改めが起きる。関わらない人間から関わる人間へとメタノイアが起きる。私たちはイエスの働きの一端に立っている。イエスを中心に集められた者たちが教会。そして教会は関わるための集まりである。


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