見出し画像

「手を差し伸べて」

マルコ1章40~45節降臨節 第6主日


マルコ福音書1章は、イエスの宣教の言葉に始まり、弟子たちの招き、悪霊に憑かれた男への関わり、そして多くの病人を癒す物語が続いている。イエスの死後、「イエスは甦つた」という復活信仰が広まっていく。しかしマルコ福音書が書かれるまでに30~40年もの期間がある。この間、「甦りのイエスとは誰か?」が問われた。その問いが、復活から遡るイエスの生涯を口伝としていく。マルコはその伝承を拾い上げ、一つの物語を創り上げた。それは3つの段階を経ている。1イエス自身に遡るイエスの言葉、行いに発するもの、2ガリラヤを中心とする口伝で、途中で加筆された部分、3福音書の成立においてマルコが加えた部分、これらの過程を経て福音書が成り立つ。さて40~45節は重い皮膚病の癒しの物語。その中で40~42節は癒しの物語、43~44節は沈黙命令、45節は出来事の広がりと3つの部分から構成されている。

 そして44節以降はマルコによる加筆と推測されている。「さて、重い皮膚病を患っている人(40節)」がいる。「重い皮膚病」は、ヘブライ語では「ツアラート」であり、ギリシア語では「レプラ」の訳。そのため昔の聖書では「らい病」と訳されていた。しかし現代医学の知識からは「ハンセン病」ではないとわかり、今の聖書では「重い皮膚病」となっている。その「人がイエスのところにひざまずいて願い、『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』と言つた(40節)」。その人が願うのは病気の癒しでなく、「『清く』して』ということ。だからこの物語は「癒しの物語」でなく、「清めの物語」である。「癒し」と「清め」、それはどう違うのか?旧約の「ツアラート」はどう理解されていたのか?民数記12章9節以下では、モーセを非難した罰として「ミリアムは重い皮膚病にかかり」と記されている。「ツアラート」は旧約では神の罰の結果として描かれている。それは宗教的な意味を持つた処罰であった。

 レビ記13章45~46節には「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です』と呼ばれなければならない。この症状があるかざり、その人は汚れている。その人は独り宿営の外に住まねばならない」とある。「私は汚れた者」と宣言して、社会の外に出ていかなければならない。それは社会的隔離を意味する。このように「ツアラート」は肉体的苦痛、宗教的処罰、社会的疎外という3つの意味を持っていた。当時のイスラエルにおいて患者はこの3つの重荷を負わされていた。

 だから「清めてくれ」は病気の治癒でなく、宗教的処罰である「汚れ」が清められることを求めている。だからこの物語は「汚れた霊を追い出す物語(21~28節)」の続きである。これは病気の癒しでなく、宗教的、社会的重荷を負わされている人の、その「汚れ」が追い出される物語である。イエスはその人にどのように関わったのか?40節、イエスはその人を1「深く憐れんで」、2「手を差し伸べて」3「その人に触れ」4「清くなれ」と言われた。それらはいずれも当時のイスラエルにおいてはありえない行為であった。誰もその人を憐れまなかった。その人は神から罰せられた人なのだから。しかしイエスだけは深い憐れみを抱いた。誰もその人に手を差し伸べなかった。差し伸べてはならなかった。社会の外にいなければならない人だから。しかしイエスだけはその人に手を差し伸べる。誰もその人に触れなかった。しかしイエスだけはその人に触れる。そしてイエスは誰も言わない言葉をかける。「清くなれ」と。イエスは、「汚れた」と言われてきたその人に「清い」と言う。このイエスの4つの行いはユダヤ教の律法に反することであった。イエスは律法の「違反者」になった。イエスにとつて律法は、神を礼拝し、人間を助けるために大事なもの。なぜイエスは律法を破ったのか?それは、それが人間と関わるということだから。人に「憐れみ」を持ち、「手を差し伸べ」、「触れ」、「清くなれ」と言うこと、それが人に関わることだ。「イエスはすぐにその人を立ち去らせよう(43節)」とする。それはその人を帰らせようとする事。ではイエスはどこに帰らせようとしたのか?それはその人が元いた場所、つまり社会の中、人間との関わりの中に帰らせようとした。その人が生きていた所に戻していく。それがイエスの働きである。

 「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい(44節)」。これはマルコの加筆であり、イエスの言つた言葉ではない。これらはレビ記14章1~32節の「清めの儀式」に則る社会復帰の律法である。今まで疎外されていた人が、イエスに触れられることで、もう一度社会の関わりの中に戻つていく。それが「清め」の出来事。関わりを断たれた人が神との関わり、人との関わり、社会との関わり、自分との関わりに帰っていく。それがイエスとの出会いの中で起こる。それが「清めの物語」である。

 イエスは「誰にも話さないように(44節)」と言う。「しかし彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それでイエスはもう公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた(45節)」。ここにはマルコのレトリックがある。イエスは黙っておくように言う。しかし図らずもこの出来事は広まっていく。誰が隠そうと、誰かが黙らせようとしても、イエスの言葉は広がっていく。隠そうとすればするほど、イエスの行いは広まっていく。イエスの言葉、イエスの行いは人に広がる力を持っている。イエスの言葉、イエスの行いは関わりを広げていく。マルコはそれを伝える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?