一人称について

 「僕」とか「俺」とか「私」とか「あたし」とか「うち」とか「儂」とか「おいら」とか「我」とか「朕」とか「小生」とか「当方」とか「当局」とか。
 まさか今の時代、「拙者」や「吾輩」、「某(それがし)」を用いる人間は流石にいないとは思うけれど、とにかく一人称というものはたくさんある。

 たくさんあるということは、その中からひとつを選ばなければならないということでもある。そして、そういった選択こそが、自由こそが、私のような人間にとって思いの外苦痛だったりする。選ぶことの難しさ。Iしかない英語が羨ましい。 

 ⋯⋯いや、一人称って、そもそも選ぶものだったのだろうか。親やきょうだい、周囲の人々を真似る形で、自然に設定されていくものではなかっただろうか。

 まあ、仮に選択権があったところで、結果的に統一されていくものでもある。多様と言っても、全国規模、時代規模で見るからこそ多様なだけで、小さなコミュニティの中では大半の人間が同じ一人称を用いているだろう。
 その要因として、異端はつまみ出されるから、人と同じものを選ぶしかないというのもあるかもしれない。流石に幼少期はそんな意識で選ばないんじゃないかと言っても、人間もまた、社会という過酷な野を生きる野生動物だから、幼いうちからカモフラージュの術を心得ていても不思議ではない。

 性差や年齢による認識の違い(選択肢の数の違いとか)もあるだろうか。勿論、女性が「僕」や「俺」を使ってはいけないなんてルールはないけれど、あらかじめ選択肢から除外されていることが多いと思う。同じく、男性も子供の頃は「私」というのはあまり使わないんじゃないか。小学生の頃を振り返ると、男子は殆ど(「僕」でもなく)「俺」だったような⋯⋯。
 また、大人になれば、私的な場と公的な場で一人称を使い分ける機会が出てくるというのもあるだろう。それに因んだ話ではないが、フィクションではよく老人の方々が、「わし」という一人称を用いている(リアルは知らない)。あれは彼らが子供の頃には「わし」という一人称が主流だったということなのか、それとも元々は「俺」とかを使っていたけれど、歳をとった以上、若者の前でキャラを作り替えなければならないといった事情により「わし」に変更したということなのか、気になるところである。

 公的な場と言えば、一応男性に該当する私がこの場で「私」という一人称を使っているのは、およそそんな感じの理由である(公的なのに私とはこれ如何に)。無難だから。一方で、Twitterでは中々一人称が定まらない。リアルで使ってるものを使えばいいじゃんってなるけれど、ところがリアルで一人称を使っていないのだから困ったものだ。

 たしか、幼稚園時代か、あるいは小学1年生くらいの頃の出来事だったように思う。たしかという言葉を用いるときは大抵不確かなときなんだけれど⋯⋯当時、学習系の習いごとに通っていた。そこの、待ち時間だったか、母親の友達の子供(同級生)とごっこ遊びをしていた記憶がある。ごっこ遊びと言っても、私は何も知識がなかったものだから、終始その人の真似事をしていただけだったと思われる。合わせていたというか。ぎこちない形になりながらもごっこ遊びに参加していたのは、今の私では考えられない、当時なりの処世術だったのだろう──あの頃のような最低限のコミュニケーション能力を保持し続けていたなら、私の人生も少なからず違っていたのだろうかと思わなくはない。ともあれ、そのとき、私は一人称を獲得したのだった。それ以前は知らない。

 で、そのときの一人称を何年にもわたり使い続けていた──ごっこ遊び中に教わった(?)一人称を、普通の一人称だと思い込んで、その後の私生活においても普通に使い続けていた。その一人称は何なのかというのはここでは伏せるけれど、周囲において間違いなく浮くような、恥ずかしい⋯⋯ではなく、不似合いなものを用いていた。
 幸い、その後──小学生時代の私は修行僧だったもので(冗談)、学校空間や学習塾空間、及びそこの人達がいる場の前では一切私語をしない縛りプレイをしていたため(冗談半分)、彼らに対して恥を晒すことはなかったものの⋯⋯しかし、私がその一人称をもって語る様を間近で聞き続けていた家族の人達は、どんな気持ちだったのだろうか⋯⋯。少なくとも矯正はされなかったが、それが長い間、一人称を訂正しようとすら考えなかった要因でもある⋯⋯基本的に外で誰とも喋らなかったことと共に。
 いや、覚えていないだけで、矯正を促されてはいたかもしれない。しかし、当時の私はその一人称をおかしいとはまったく思っていなかったので、どの道変わらなかっただろう。⋯⋯当然、私の一人称が、他の人々のそれとは違うことはわかっていたはずだけど、「その一人称を含めて自分」という感覚だったと言うべきか、詳しくは覚えていないが、少なくとも変えるなんて考えもしなかったように思う。

 ⋯⋯で、その一人称をやめたのは、自分でおかしいと気付いたからである(思春期?)。いつやめたのかは、定かではない。結構長い間使っていた。 が、今となっては心の中にも残っていない。スッと消えた。所詮はその程度の愛着で、その程度の人生だったのだろう。 

 以来、私の中で一人称は設定されていない。文書やネットなどで用いるものはともかく、「ありのままの一人称」というものがない。何故設定しなかったのかと言えば、基本的に人と話すことがないからそのままでも支障がなかったからというのもあるけれど、何と言うか⋯⋯出遅れた感じだった、からだろうか? 他の人々が生まれてしばらくして行っているようなことを、今更自分が行うことが、恥ずかしいというか、はばかられるというか。人格形成にかかわってきた大切なものを失って、今更再設定する気にもなれなかったのかもしれない。

 私の人生は、たとえるなら「重大な転機が訪れる大一番のそのときに、軽度の腹痛を催して、他の皆が集う居るべき場から離れ、ひとりトイレにこもっている」ようなものだったけれど、一人称の件もこれに当て嵌まるな⋯⋯。始めに間違った時点で修正できない、いや、修正はしたものの修正の仕方が間違っていたと言うべきか。間違って組み立てたおもちゃのブロックを、正しく組み換えようとしてぐちゃぐちゃにしてしまった感じ。部品は欠損し、二度と戻せない。
 かつてのごっこ遊びよろしく、皆に合わせて同じものを選択すればよかったのにと言っても(その皆とは会話しないまでも)、その頃にはそんな人間ではなくなっていた。もはやどれもが馴染まなかった。過去に使っていたものを含めて、もう何を選んでも、「自分」という感覚にはならなかった。

 自分。

 それこそが、ネットなどにおいて、よく使う一人称である。 
 ごまかしの意味で⋯⋯いや本当に、使っていて何かをごまかしている感じなのだ(かと言って、他の一人称を使っているときも、それはそれでまた別のものをごまかしている感じ)。しかし、自分のような、自分を持たない人間が使う一人称としては、これ以上なく相応しい──ごまかしを繰り返してここまで生きてきた、自分のような人間には。「お前これからもこそこそ生きてろよ、後ろめたく」と、使うたびに囁かれるような感覚。⋯⋯うん、まさに自分って感じ。 

 というわけで、人と話すときはともかく、文章を書いているときは回避するのが難しい一人称だけど、これからも「自分」という一人称を使っていくことになると思う。ここでは意識して「私」を用いつつ、隙あらば「自分」になっているといった、そんな使い分けになっていることだろう⋯⋯使い分け?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?